田島宿(南会津町)概要: 田島宿は中世、長沼氏の居城である鴫山城の城下町として発展した町です。長沼氏は秀郷流藤原氏小山氏の一族で南北朝時代前後に南山地区に土着すると急速に勢力を広め戦国時代には会津四家(芦名氏、山内氏、河原田氏、長沼氏)に数えられる程に繁栄しました。その後、芦名氏の台頭により半従属関係となりますが天正17年(1589)に伊達政宗の会津侵攻により芦名氏は本家筋である佐竹家を頼り常陸に落ち延びた為、長沼氏は伊達家に臣従します。天正18年(1590)の小田原の役で長沼氏は参陣しなかった為に大名家とは認められず事実上改易となり、以後、伊達家の家臣として当地を離れました。
江戸時代に入ると田島領は会津藩に属し、会津西街道が開削された元和年間(1615〜1623年)に宿場町として整備されました。田島宿は会津西街道と沼田街道(檜枝岐を経て沼田城下に至る街道)との分岐点として重視され寛永4年(1624)には口留番所が設置され人物改めや荷物改めなどが行われました。寛永20年(1643)、当時の会津藩主加藤明成が御家騒動により改易になると田島宿は天領となり正保元年(1644)には番所が糸沢宿に移され、元禄6年(1693)には天領代官陣屋が設けられました。田島宿は当地方の行政、経済の中心として発展し六斎市が立ち、花町も形成されました。
戊辰戦争の際には会津藩の軍事的拠点として重要視され慶応元年(1865)には後町陣屋を新たに造営し、慶応4年(1868)には宇都宮城(栃木県宇都宮市)から脱出した幕軍の大鳥圭介が田島宿で軍の再編を行っています。その後、新政府軍により陣屋は占拠されますが、周辺住民の反発や会津藩兵である佐川官兵衛隊の活躍もあり陣屋の奪還に成功するといった一幕もあります。明治11年(1878)6月27日にはイギリス人女性紀行家イザベラバードも田島宿を訪れ著書である「日本奥地紀行」で「私たちは田島で馬をかえた。ここは、昔、大名が住んでいたところで、日本の町としてはたいそう美しい。この町は下駄、素焼、粗製の漆器や籠を生産し、輸出する。・・・・」と記載しています。
会津西街道(下野街道):宿場町・再生リスト
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