大鳥圭介(戊辰戦争)

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大鳥圭介(戊辰戦争):概要 大鳥圭介は播磨国赤穂郡赤松村で医師の子供として生まれ、当初は漢方学や西洋医学を学び医師を目指していましたが、江戸に出てからは軍学や兵法学などを学び安政4年(1857)には縄武館(江川塾)の兵学教授として召還される程になっていました。その後は尼崎藩や徳島藩から要請を受け藩士となり、さらに幕府からも召還され御鉄砲方附蘭書翻訳方や海陸軍兵書取調方、富士見御宝蔵番格などを歴任し慶応4年(1868)には歩兵頭に昇進しています。江戸開城後は旧幕府軍の精鋭部隊である伝習隊を率いて北関東から東北、蝦夷地(北海道)まで転戦しています。戊辰戦争終結後は新政府に参画し、陸軍大佐や工部省四等などを歴任し、維新後の日本の殖産興業の育成に尽力しています。

大鳥圭介・会津西街道: 慶長4年(1868)4月23日、新政府軍の侵攻により宇都宮城(栃木県宇都宮市)が落城し奪取されると、当初計画された日光東照宮での最終決戦の為に4月25日に日光山に布陣しますが、何らかの圧力、又は説得工作により日光東照宮から今市宿まで後退し、さらに会津西街道を北上して閏4月5日には田島宿に着陣し4月12日にかけて軍の再編成を行い第1大隊450人(元大手町大隊、隊長秋月、参謀工藤・松井)、第2大隊350人(元小川町大隊、隊長大川・沼間)、第3大隊300人(元御料兵・加藤兵内、元七連隊・山瀬主馬・天野雷四郎・山川大蔵)、第4大隊200人(草風隊・天野花陰・村上求馬、純義隊・渡辺綱之助)と編成されています。閏4月18日には田島宿を出陣し横川宿に宿営、閏4月19日には河沼温泉に宿営、閏4月20日には藤原宿に宿営しています。閏4月21日から本格的な今市宿の攻防戦が始まり大鳥はさらに隊を分け新政府軍に対して侵攻しましたが、中には道を迷う隊や遅れる隊などがあり足並みがそろわず、結果的に机上の空論となり、少ない隊が個別に各個撃破されるとという戦略的な失敗により敗退しています。

今市宿は会津西街道(下野街道)と日光街道、日光例幣使街道が分岐する交通の要衝で日光口の最大の戦略的拠点であった事から、5月6日に再び今市宿の奪還作戦が遂行され、先日の教訓から一体的な攻撃を与えたものの、新政府軍を指揮していた板垣退助も、今市宿の重要性から周囲に土豪を築くなど要塞化させていた為容易に落とす事が出来ず一進一退が繰り広げられました。その後、宇都宮城から新政府軍の増援部隊が到着すると形成は一気に新政府側に傾き、旧幕府軍は藤原宿まで大きく後退し、以後は小佐越や大原に陣地を築き防衛に徹し、小規模な戦いが散発的に起きました。6月25日、新政府軍の侵攻により小佐越と大原の陣地が落とされますが大鳥の部隊が救援に駆けつけ、ここでは旧幕府軍が勝利しています。この戦い後、大鳥が率いた伝習隊は休息と編成する為に会津城下に引き上げています。


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会津藩領の国境付近で行われた「母成峠の戦い」に参戦した際、新政府軍の猛攻により大敗、大鳥圭介率いた伝習隊は良く応戦したものの、大きな損害を受けました。母成峠が新政府軍に突破されると、僅か数日で会津城下まで戦場となり会津軍は鶴ヶ城に籠城、大鳥圭介は同じ奥羽越列藩同盟の仙台藩に一端逃れ、旧幕府の海軍を指揮した榎本武揚と合流し、蝦夷地に至り蝦夷共和国(箱館政権)を立国、陸軍奉行に就任しています。しかし、五稜郭は程なく陥落し、降伏した後に収監されています。出獄後は新政府に出仕し、陸軍大佐や勅任官などの要職を歴任しています。

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