三依姫:伝説

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三依姫(横川宿):概要 伝承によると田島城(鴫山城福島県南会津郡南会津町田島)の城主長沼氏三依姫の宝篋印塔と川崎城(栃木県矢板市川崎)の塩谷氏は同盟を結ぶ為、当時の城主塩谷左衛門尉が姫(娘)を長沼氏に嫁がせ、化粧料として三依郷六カ村を与えました。その後、実家である塩谷氏は一族間の争いにて滅亡し、嫁ぎ先の長沼氏も室町幕府3代将軍足利義満に対抗した為滅亡、姫は旧領である三依郷に隠れ住み生涯を閉じたと伝えられています。村人は姫を哀れみ墓碑を建立し長く菩提を弔い供養し、会津西街道横川宿には姫の供養塔(宝篋印塔)と墓碑(五輪塔)が残されています。

別の伝承によると、永禄12年(1569)に田島城(鴫山城)の城主長沼実国は嫡男長沼盛秀に当主を譲り後室である大津入道梅雪女と、次男である長沼国清と共に三依村に築城された鶴渕城(姥捨山城)に隠居し後に会津西街道と呼ばれる街道筋の守備を行いました。国清の代になると、会津黒川城(現在の鶴ヶ城)の城主芦名氏の侵攻により鶴渕城も落城寸前まで追い込まれましたが、同盟関係にあった川崎城の城主塩谷氏の援軍によりどうにか撃退する事が出来ました。しかし、これにより国清は塩谷氏の配下に甘んじる事となり三依郷の一部が与えられています。その後、天正18年(1590)、河原田氏の攻撃で手傷を負った兄盛秀が死去すると事実上長沼氏は滅亡し、国清の生母である大津入道梅雪女が三依村で亡くなった為、村人は三依姫として宝篋印塔を建立したとあります。

2つの伝説の時代背景は200年程の開きがあり、どちらが正しいのか、両方とも違うのかは解りません。一般的に宝篋印塔は身分の高い人物の供養塔として建立される事が多い為、横川宿にこのような伝承が伝わったと思われます。横川の宝篋印塔は2基あり、1基は塔身118センチメートル、もう1基は115センチメートル、昭和48年(1973)に日光市(旧藤原町)指定有形文化財(建造物)に指定されています。


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