鴫山城(福島県南会津町田島)

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田島宿(会津西街道・鴫山城)
【 鴫山城 】鴫山城福島県南会津町)は中世、長く南会津東地区(南会津町田島地方)を支配した長沼氏の居城でした。鴫山城が何時頃に築かれたのかは明確な資料が無く不詳ですが、南北朝時代の観応3年(1352)に下野国芳賀郡長沼を本拠としていた本家筋の長沼秀直が陸奥国会津南山長江庄会津田島に移ってきた事から(又は貞治2年:1363に長沼憲秀)、その前後に築かれたと思われます(本領は庶子家が引き続き支配)。資料的な初見は長禄4年(1459)、「塔寺八幡宮長帳」と呼ばれる古文書によると山内氏と白川氏の侵攻により鴫山城が落城した事が記録されています。戦国時代に入ると北会津を制した蘆名氏と大沼郡金山谷、南会津郡伊北只見川流域の山内氏、南会津郡伊南の河原田氏との戦いが繰り広げられ、特に最大勢力を誇った蘆名氏の南下により圧力を受け、永正18年(1521)には鴫山城が一時占拠されるに至りました。その後、他勢力の協力を得て再び奪還しましたが、16世紀半ばには蘆名氏の軍門に下る事になります。しかし、蘆名氏も大きく版図を広げた蘆名盛氏が死去すると、勢力に陰りが見え始め、天正17年(1589)摺上原の戦いで常陸国(茨城県)の大大名佐竹家から養子として迎えていた蘆名義広が米沢城(山形県米沢市)の城主伊達政宗に敗れると、義広は実家である佐竹氏を頼り常陸国に退去しました。当時の鴫山城の城主、長沼盛秀は逸早く伊達家に臣従し領内を安堵されましたが、天正18年(1560)の小田原の陣には伊達家の命により小田原参陣を怠った為、奥州仕置きでは大名としては認めらず、形式的には改易となり、伊達家の家臣に組み込まれました。その伊達家も惣無事令違反と、小田原に遅参した事から、旧蘆名領が認めらず、長沼氏も伊達家と共に当地を去りました。新たに会津城(福島県会津若松市:当時の黒川城)の城主となった蒲生氏郷は家臣である小倉行春を6千3百石で鴫山城の城代として配し、慶長3年(1598)、蒲生秀行が御家騒動を起こし、宇都宮城(栃木県宇都宮市)に移封になると、代って会津城に入った上杉景勝の家臣大国実頼上杉家執政直江兼続の実弟)が2万1千石で鴫山城の城代として赴任しました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際は後に会津西街道(下野街道)が東軍の侵攻経路として想定された為、鴫山城は大改修が行なわれたと思われます。本戦である関ヶ原で西軍が敗れた為、上杉景勝が米沢藩に移封となり、新たに会津城に入った蒲生秀行が会津藩を立藩し、再び小倉行春が鴫山城の城代となっています。小倉行春が後に会津西街道(下野街道)の宿場町で鴫山城の城下町でもある田島宿の整備を行いましたが、寛永4年(1627)、蒲生氏が移封となり加藤嘉明が会津藩主になった際に鴫山城は廃城となり麓に田島陣屋が設けられています。鴫山城の跡地は現在でも明瞭な遺構が数多く残され、福島県指定史跡に指定されています。周辺には長沼氏縁の史跡が多く、崇敬社だった田出宇賀神社や菩提寺だった徳昌寺などが点在しています。
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