大国実頼(鴫山城の城主)

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大国実頼(鴫山城):概要 大国実頼は永禄5年(1562)、鴫山城上田長尾家の家臣樋口惣右衛門の2男として坂戸城(新潟県南魚沼市六日町)の城下町で生まれました。直江兼続の実弟で幼名は与七、兼続と同様に幼少期より後の上杉景勝となる長尾顕景に従っていたと思われます。永禄9年(1566)、顕景の父親が上杉謙信に暗殺された(諸説有り)事を受け、顕景が謙信の養子となり、天正3年(1575)に上杉景勝に改名、天正6年(1578)に謙信が死去すると葬儀直後に春日山城本丸と金蔵を占拠し、景勝と同様に謙信の養子だった上杉景虎と対立します。明確な記録はありませんが、樋口与七はこの上杉家の家督争いである「御舘の乱」で兄直江兼続と同様に景勝方に付いたとされ、景勝の勝利により与七の地位が確立したと思われます。天正10年(1582)、上杉家に従っていた有力国人領主小国家に内紛があり、それに乗じた景勝が強引に与七を小国家の養子として名跡を継がせ、事実上小国家の正統は滅亡しています(当時の当主である小国重頼は家督を嫡男と思われる石見守頼恭に譲り隠居している事から上杉家から何らかな画策があったと推察されます)。その後は景勝の重臣として扱われ、新発田重家の乱などにも従軍し戦功を挙げて、一方で現在でいう外交官的な役割を担い天正15年(1593)には豊臣秀吉の聚楽第(京都府京都市:秀吉の京都での政庁兼邸宅)完成を祝い上杉景勝の代参で秀吉に謁見しています。この際に小国から大国に姓を改め、従五位の下・但馬守となり以後、大国但馬守実頼と名乗っています。基本的に実頼は京都の上杉屋敷に留まり、中央での政務や豊臣家と上杉家の渡し役に徹し、さらに諸大名との関係を円滑にする為に能書、連歌などの文化を身に着け村上城(新潟県村上市)9千石を給うまでになっています。

慶長3年(1598)、上杉景勝が会津鶴ヶ城120万石に移封に伴い会津南山地方2万4千3百石が与えられ家中では上杉景勝、直江兼続に次ぐ3番目の大身となりました。鴫山城(新潟県指定史跡)実頼は南山地域の中心である鴫山城(新潟県指定史跡)に入ると景勝の命で鶴ヶ渕防塁(栃木県日光市)などの普請を行い、鴫山城も近代城郭に改修、拡張したと思われます。これは会津西街道(下野街道)が会津地方侵攻の経路になる事が想定された為で、それだけ実頼が信用されていた事が窺えます。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの直前には会津鶴ヶ城が籠城戦に向かない事から新たに神指城の縄張りが行われ実頼は直江兼続と共に作事奉行を担い戦いに供え、戦いでは兼続が北上して最上領に侵攻し、実頼は東軍の会津侵攻に備え当地に布陣する一方で、旧領である越後国の国人領主や領民達を煽動し大規模な一揆を起しています。関ヶ原での敗北後、慶長6年(1601)に景勝が米沢城(山形県米沢市)30万石に移封になると実頼は高畠城(山形県高畠町)7千石となりましたが、引き続き京都に留まっています。その後は直江兼続との対立(兼続が養子として本多政重迎える事に反対したとも)から上杉家を出奔し、兼続が死去後に米沢藩領の小松(山形県川西町中小松)に密かに戻り隠遁生活を送ったとされます。


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【田島宿】田島宿は長沼氏の居城だった鴫山城の城下町として整備され発展した町で、会津西街道(下野街道)の宿場町として整備された後も南会津地方の天領支配の中心として代官所(陣屋)が置かれ行政、経済の中心としての地位を維持しました。特に田島宿は会津西街道と上州沼田地方(群馬県沼田市)とを結ぶ沼田街道が分岐していた事もあり交通の要衝としても物資や旅人の往来が多い宿場町でした。江戸時代末期の戊辰戦争の際には旧幕府軍と会津軍の今市口方面の拠点にもなり、軍の再編成などにも利用されています。田島宿には長沼盛秀の菩提寺である興国山徳昌寺や崇敬社として庇護した田出宇賀神社、熊野神社などが点在し、明治11年(1878)に田島宿を訪れたイギリス人女性紀行家イザベラバードも大名の城下町で趣きのある町と評しています。

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