行基菩薩伝説

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行基菩薩伝説(東山温泉・芦野温泉):概要 行基菩薩は高志才智を父親、蜂田古爾比売を母親として飛鳥時代の天智天皇7年(668)東山温泉に河内国大鳥郡(現在の大阪府堺市西区家原寺町)に生まれました。行基菩薩は15歳で出家して修行を重ねると、公共事業を進めながら当時庶民には禁止されていた仏教を広め、庶民から信仰されるようになりました。現在知られている行基菩薩が携わった公共事業は、昆陽池(兵庫県伊丹市)、久米田池(大阪府岸和田市)、狭山池(大阪狭山市) 、泉橋(木津川)、山崎橋(淀川)、行基橋(福岡県沖端川)、河尻泊(尼崎市神崎町)、大輪田泊(神戸市兵庫区)、魚住泊(明石市大久保町)、韓泊(姫路市的形町)、室生泊(たつの市御津町室津)、この実績が功を奏し、全国には行基菩薩が発見したと伝わる温泉が各地に点在しています。会津西街道の街道沿いにはありませんが、そこから少し外れると、東山温泉(福島県会津若松市)と芦ノ牧温泉(福島県会津若松市)の2つの温泉が行基菩薩が発見したという伝説が残されています。福島県全域で見ると満願寺(白河市関辺※松尾芭蕉も奥の細道で訪れています)、称名寺(伊達市)、小倉寺観音(大蔵寺:福島市)鳥追観音(西会津町)馬頭観音(磐梯町)などが行基菩薩と縁があるされます。

芦ノ牧温泉・概要: 芦ノ牧温泉は和銅年間(708〜715年)、行基菩薩が全国的に流行り病が蔓延して荒廃した心を救う為に、芦ノ牧温泉全国を行脚し仏教の教えを請いながら、芦ノ牧に訪れと、川辺で鶴と亀が傷を癒している姿を見て源泉が湧き出ているのが温泉である事を認識したと伝えられています。又、源義経が入湯したとの伝説も残されています。中世に入ると、会津地方を治めた芦名氏(戦国時代に伊達政宗の会津侵攻により(その伊達政宗も、豊臣秀吉の奥州仕置きにより大きく領土を失い会津を去っています)、会津の地を離れ、本家のある常陸(現在の茨城県)に逃れています。)の牧が設けられた事から「芦ノ牧」の地名が成ったとも云われています。明治時代に入り会津西街道が主要街道から外れ、改めて会津三方道路が整備されると、道路沿いにあった芦ノ牧温泉の利用客が増大し賑わったそうです。一方、大動脈だった会津西街道の路線変更により大内宿(福島県下郷町)などの宿場町は衰退しました。


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東山温泉・概要: 東山温泉は奈良時代の天平年間(729〜749年)に行基菩薩が会津地方を巡錫した際に、八咫烏と思われる神鳥に導かれ、霊泉に浸かる猿の姿を見て温泉と認識したと伝えられています。江戸時代に入ると会津藩の保養所として開発され、藩主である松平氏も湯治に訪れたそうです。幕末には東北遊学で会津に訪れた吉田松陰や、戊辰戦争の際には宇都宮城(栃木県宇都宮市)の攻防戦で戦傷を受けた新選組副長・土方歳三が東山温泉に湯治に訪れ傷を癒した事でも知られます。

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