保科正経(会津藩2代藩主)

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保科正経(会津藩2代藩主):概要 保科正経は初代会津藩主保科正之の4男で本来、会津藩2代藩主:保科正経藩主とは遠い存在でしたが、3人の兄が早世した為、寛文9年(1669)に正之の隠居に伴って2代藩主に就任しました。寛文12年(1672)に正之が江戸藩邸で死去すると、寛文13年(1673)に正経は正之が生前信仰していた卜部家神道による神式で埋葬、延宝2年(1674)に墓碑(土津霊神の碑)を建立し(墓地は遺言により会津鶴ヶ城の鬼門に当たる北東の福島県耶麻郡猪苗代町字見祢山)、さらに延宝3年(1675)に墓地境内に土津神社を創建、正之の御霊を祭神としました。正経は元々病弱だった事もあり、領民を疫病から救う事を兼ねて、寛文10年(1670)に中世の領主だった芦名氏の別荘跡地に薬草園を造園、この薬草園は歴代藩主も引継ぎ、御薬園として朝鮮人参の民衆への奨励に繋がったとされます(御薬園はその後、目黒浄定による大名庭園が作庭され藩主松平家の別荘として利用され、戊辰戦争の際には野戦病院となっています。御薬園は国指定名勝に指定されています)。延宝2年(1674)には会津鶴ヶ城の城内に学問所を設けて藩士の教育に尽力し、後の藩校日新館の原型となっています。天和元年(1681)に死去、享年36歳、正経は仏門に入っていた為、会津藩主保科、松平家唯一仏式で葬られ戒名「鳳翔院殿前拾遣會陽太守宜山休公大居士」が贈られています。

初代藩主保科正之以外の歴代会津藩主松平家は死没すると松平家院内御廟(福島県会津若松市東山町:東山温泉の手前)に葬られますが、唯一保科正経だけが仏式で、他の藩主は神式で埋葬されています。神式の墓碑形態は亀石(亀趺:想像上の神獣、墓守の役割がある為、それぞれ鎮め石の方向を向いています)の碑石、位階の表石、霊をまつる鎮石(八角形で、この下に藩主の眠る石室が安置されています)の3体が1組ですが、仏式は碑石(亀石無し)と戒名が彫られた墓碑のみで構成されています(他の藩主には戒名が無く神号が与えられています)。


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保科正経の会津西街道(下野街道)の利用
年 号
利用理由
備 考
寛文9年(1669)会津入り 
寛文10年(1670)参勤交代、会津から江戸へ往路
寛文11年(1671)会津帰国、江戸から会津へ復路
寛文12年(1672)参勤交代、会津から江戸へ往路
延宝2年(1674)参勤交代、会津から江戸へ往路
延宝3年(1675)会津帰国、江戸から会津へ復路
延宝4年(1676)参勤交代、会津から江戸へ往路
延宝5年(1677)会津帰国、江戸から会津へ復路
延宝6年(1678)参勤交代、会津から江戸へ往路
延宝7年(1679)会津帰国、江戸から会津へ復路

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