会津藩主松平家墓所概要: 明暦3年(1657)、初代会津藩主保科正之の嫡男正頼が亡くなると、正之の命で院内山(福島県会津若松市東山町大字石山字院内:東山温泉の手前)に墓域が設けられました。
正之の遺体は遺言により延宝元年(1673)、磐梯山山麓の猪苗代湖を望む霊廟に埋葬されましたが(後に土津神社が創建されました。)、2代目以降の歴代藩主と1部の家族などが院内山に葬られました。
会津藩主松平家墓所は大きく西之御庭、中之御庭、2代墓所、入峰墓所の4箇所の墓域に分かれ2代藩主保科正経は仏教を信仰していた為、単独で仏式で埋葬されましたが3代から9代は神道だった為、入峰墓所に葬られ墓域には各藩主毎に碑石(亀趺坐と呼ばれる石造神亀の上に笠付きの石碑を建てた形状で、国文学者によって作成された碑文:藩主の経歴や実績、生立が刻まれています)・表石(藩主の名称が刻まれています。)・鎮石(石造8角形、この下に設けらた棺の中に藩主が埋葬されています。)、大型の石燈籠から構成されている神式にて埋葬され麓には共通の拝殿が造営されています。
一段下がった西之御庭、中之御庭には藩主の正室、側室、子女が葬られており、藩主のものと比べると墓の規模も小さくまとまっています。松平家墓所は東西300間、南北150間、約4万5千坪(15万u)と他の大名墓と比べても広大で格式が高く、神式の墓としても大変貴重な存在で、会津若松市の院内山(院内墓所・院内御廟)と猪苗代町の見禰山(土津神社)の2箇所が「会津藩主松平家墓所」として昭和62年(1987)に国指定史跡に指定されています。
会津藩主松平家墓所−埋葬者
・ 2代保科正経−没年:天和元年(1681)享年36歳−戒名:鳳朔院(仏式葬)
・ 3代松平正容−没年:享保16年(1731)享年63歳−神号:徳翁霊神
・ 4代松平容貞−没年:寛延3年(1750)享年27歳−神号:土常霊神
・ 5代松平容頌−没年:文化2年(1805)享年62歳−神号:恭定霊神
・ 6代松平容住−没年:文化12年(1806)享年28歳−神号:貞昭霊神
・ 7代松平容衆−没年:文政5年(1822)享年20歳−神号:欽文霊神
・ 8代松平容敬−没年:嘉永5年(1852)享年47歳−神号:忠恭霊神
・ 9代松平容保−没年:明治26年(1893)享年58歳−神号:忠誠霊神
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