会津城:概要 会津城は「鶴ヶ城」、「会津若松城」、「若松城」、「会津黒川城」、「黒川城」などと呼ばれ、江戸時代には会津藩の本城として機能していました。元々は南北朝時代に三浦義明の7男・佐原義連(鎌倉時代の会津領の領主)の後裔とされる蘆名直盛によって築かれました。蘆名氏は会津地方だけでなく、越後地方や出羽地方、陸奥中通りにも進出し、戦国時代には80万石前後を領する大大名に成長し南奥羽の覇者となり会津城下も大きく発展したと思われます。しかし、蘆名盛氏が死去すると二階堂家からの婿養子である蘆名盛隆が継ぎ、盛隆が死去すると幼少だった亀若丸が継ぎ、その亀若丸も数年の内に死去した事で、親戚筋の常陸国(茨城県)の大大名佐竹家から養子として蘆名義広を迎えました。これらの事象により蘆名家宗家の影響力が低下、家臣同士の分裂が顕著になり、さらに、佐竹家から養子を迎えた事で義広付きの家臣達とも分裂しました。天正18年(1589)、米沢城(山形県米沢市)のの城主伊達政宗とのに摺上原の戦いで大敗した蘆名義広は、実家である佐竹家を頼り常陸に撤退し、会津城は事実上の開城、伊達政宗が入城します。政宗は本城を米沢城から会津城に移しましたが、佐竹家が豊臣秀吉が発令した惣無事令違反を豊臣家に対して訴え、さらに、政宗は天正19年(1590)の小田原の陣に遅参した事から印象を損なった事から、旧蘆名領80万石が取り上げられ、豊臣秀吉に従った蒲生氏郷が92万石で会津城に入ります。
会津城は氏郷によって近代城郭へと大改修され本丸には7層の大天守閣が設けられ、城下町も積極的に町割が行われています。しかし、慶長3年(1598)、跡を継いだ蒲生秀行は若輩だった事から92万石という日本有数の領地、家臣をまとめきれず、御家騒動となり分相応となる18万石に減封され宇都宮城(栃木県宇都宮市)に遷されています。変わって会津城には五大老の1人上杉景勝が120万石で入封、同年、豊臣秀吉が死去すると後継者と目される徳川家康との対立が深まり、上杉家執政直江兼続は家康の侵攻に供えて領内の武装化に尽力しています。慶長5年(1600)、それらの事象が敵対行為と見なされ、会津侵攻が決定、これにより東軍(徳川軍)が結成されます。東軍は小山(栃木県小山市)まで進軍しましたが、石田三成が主導する西軍が結成した報を受けて転進、上杉軍は対激戦を行わず、出羽国、陸奥国に侵攻し戦局は優位に展開しました。しかし、本戦である関ヶ原の戦いで西軍が敗北した事を受け、戦局が維持出来なくなり、上杉軍は本領に引き上げ、撤退戦では大きな被害を受けています。これにより、上杉景勝は米沢藩30万石で移封、変わって蒲生秀行が旧領となる会津城に60万石で入封し会津藩を立藩しています。
寛永4年(1627)、蒲生忠郷が死去すると跡継ぎがなく改易が検討され、結果、蒲生家は徳川将軍家と関係が深かった事から特別に弟である蒲生忠知が継ぐ事が許されますが、24万石に減封の上、松山藩(愛媛県松山市)に移封となっています。変わって、会津城には加藤嘉明が43万5千5百石で入封、加藤家は嘉明、明成の2代に渡り会津城の改修や城下町の建設、領内の振興に尽力し近世会津の基礎を築きましたが、寛永20年(1643)、所謂「会津騒動」と呼ばれる騒動を起こし改易となっています。変わって、会津城には保科正之が23万石で入封、正之は3代将軍徳川家光の異母弟として、家光から絶対の信頼が寄せられ、事実上の右腕として江戸幕府の幕政にも尽力し大きな影響力がありました。会津藩も、御三家に次ぐ石高を領し、天領5万石と実石を合わせると御三家の1つ水戸藩(茨城県水戸市)を凌駕したとされます。正之は徳川将軍家対して絶対の忠誠を近い「会津家訓十五箇条」の遺訓を残し、歴代会津藩主松平家がその遺訓を守った事が会津戊辰戦争に繋がったとも云われています。慶応4年(1868)の会津戊辰戦争の際は、四方から新政府軍に攻め込まれ、1ヶ月に渡る籠城戦後に会津城は開城に応じています。
|