関山宿:概要 関山宿(福島県会津美里町)は会津西街道(下野街道)の宿場町として寛永18年(1641)に成立しました。関山宿と、次の宿場町である大内宿との間には難所として知られた氷玉峠(標高:866m)と大内峠(標高:約910m)が控えていた為、会津城(鶴ヶ城)の事実上の玄関口として重要視され、本陣などの施設も設置されています。集落の発生起源は判りませんが、寛永18年(1641)に関山宿の成立に先立ち合併した上小松村に祭られていた関山観音(十一面観音像:会津三十三観音霊場第24番札所)は奈良時代から平安時代の高僧として知られた徳一大師が彫刻したと伝わる古仏である事から、当地も比較的早くから開けていたかも知れません。関山宿には「金毘羅」や「古峯神社」、「飯豊山」、「湯殿山」、「十三夜供養」、「阿弥陀仏」などと刻まれた石碑や「観音像」。「地蔵」、「青面金剛」などの石仏が複数見られ、当時の宗教観が窺え、「湯殿山」碑は隣の大内宿にも建立されており、出羽三山(山形県鶴岡市)の信者や講が会津西街道(下野街道)を参拝道として利用していたのかも知れません。又、飯豊山も現在の福島県と山形県の県境に聳えた信仰の山で、往時は多くの信者が登拝を目指しました。戊辰戦争の際には大内峠が会津藩の最終防衛線と考えていた事から、大内宿を拠点とした新政府軍と、関山宿を拠点とした会津軍との間に激しい攻防戦が行われ双方多数の被害者が出ています。結果的には会津軍は敗退し、会津城(鶴ヶ城)に撤退、関山宿はその兵火により殆どの家屋が焼失したとされます。宿場の外れに建立された「戦死四十人墓」は当戦いの戦死者の慰霊の為に建立されたもので、会津藩兵の野村悌之助や渥美守太郎以下40名の御霊が弔われています。町並みは戊辰戦争後に再建されたもので、街道沿いに古民家が並び宿場町らし景観が見られます。
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関山宿:町並み・写真
現在の関山宿の町並みに土蔵が多いのも、戊辰戦争の戦火で焼き払われた教訓から耐火や防火建築が求められたのかも知れません。大内宿同様に明治17年(1884)に会津三方道路(現在の国道121号)が開削されると衰退し、都市的な発展には至りませんでしたが、現在も落ち着いた町並みが残され宿場町の雰囲気が感じられます。
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