川島宿:概要 川島宿(福島県南会津町)が何時頃に会津西街道(下野街道)の宿場町として成立したのは判りませんが、前身となる街道の際にもある程度の家屋の集積があり寛永14年 (1637)には馬次に指定、これ以前の馬次は糸沢宿と田島宿の間で行われていましたが、交通量の増大などにより便宜が図られたと思われます。正保4年(1647)に会津藩初代藩主保科正之により正式に会津西街道(下野街道)が開削され、各宿場が定めらている事から、この時には既に宿場町として認識されていたようです。明暦元年(1655)には周辺の集落から住民を集め本格的な町割が行われ、会津城下からは11里28町余、田島宿からは1里余、家屋58軒という宿場町となっています(江戸時代後期には家屋が62軒とやや増加していますが、田島宿は交通の要衝で代官陣屋(田島陣屋)が置かれ、糸沢宿は山王峠を控え、大名の参勤交代で宿所として利用されていた事に比べると、苦戦していたように感じます)。明治時代に入り宿場制度が廃止になると困窮が深まったようで、明治11年(1878)に会津西街道(下野街道)を旅したイギリス人女性紀行家イザベラバードが川島宿で宿泊した際には「58戸のみじめな村」と酷評し、宿所も酷く、食事も米や醤油などの基本的なものすらなかったと著書「日本奥地紀行」に記録しています。明治17年(1884)に会津三方道路(現在の国道121号)が開削されると道路から外れた大内宿や倉谷宿、関山宿は大きく衰退しましたが、逆に良好な町並みが残され、宿場内に道路が通った楢原宿や田島宿は町並みは失われたものの、近代化が図られています。川島宿は道路が通り、明治22年(1889)には荒海村の村役場が設置されたものの、大きな経済発展が図られず、昭和28年(1953)には村役場が隣の関本集落に移された事でさらなる衰退を招き、道路の拡幅した事もあり、現在の川島宿は当時の宿場町の風情ある町並みは殆ど見る事が出来ません。川島宿の本陣及び問屋は星家が勤めていたとされ、大内宿の本陣復元の際には糸沢宿の本陣と共に参考にしたとの記載が見られますが、現在、星家住宅の方は失われているようです。
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川島宿:川島家住宅・写真
宿場の名前の冠と同様の川島家住宅は寛政5年(1793年)火災直後に再建された古建築で敷地内に建てられている旧南照寺千手観音堂と共に国登録有形文化財に登録され旧宿場町らしい遺構の一つとなっています。
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