中三依宿(栃木県日光市)

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中三依宿:概要 中三依宿(栃木県日光市)中三依宿(会津西街道・宿場町)の宿場町としての発生起源は判りませんが、正保4年(1647)に会津藩初代藩主保科正之により正式に会津西街道(下野街道)が開削されると宿場町として選定されています。大きく上三依村、中三依村、下三依村の3地区で構成され、基本的に中三依が宿場の機能を果たしていましたが、文化9年(1826)の火災で大きな被害を受けると上三依村が代わりを務めています。会津城下からは18里に位置し、当初は家屋が48軒(江戸時代後期には35軒前後)あり、隣接する横川宿(栃木県日光市)よりは一回り大きな宿場町でした。大内宿福島県下郷町)と同様に宿場町としての宿賃や運送の駄賃だけでは生活が成り立たなかった為、農業や養蚕、杓子製作なども生業とし「半宿半農」の生活が営まれました。天和3年(1683)の日光大地震により堰き止め湖である五十里湖が発生すると会津西街道(下野街道)が通行不能となり、新たに塩原経由で奥州街道氏家宿(栃木県さくら市氏家)を結ぶ、塩原街道(尾頭峠越え)が開削され中三依宿がその分岐点となりました。氏家宿は鬼怒川舟運の川湊である阿久津河岸があり、中三依宿(会津西街道・宿場町)会津藩の廻米はここで舟運船に積み込まれ江戸に運ばれた事から重要視されました。宿場の外れには塩原街道の一里塚である上三依一里塚が街道の両側に残されており日光市(旧藤原町)指定史跡に指定されています。江戸時代末期の会津戊辰戦争の際には慶応4年(1868)8月23日には旧幕府軍が中三依宿に着陣、翌、8月24日に新政府軍が塩原街道を利用し侵攻してくると、宿場の家屋を焼き払い、会津領に撤退しています。

中三依宿:町並み・写真
中三依宿:町並み・写真

現在の中三依宿は風情ある町並みとはいえませんが湧水の水場や中三依の地蔵・石仏群などが残されています。

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会津西街道(下野街道)・宿場町

会津城下
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