楢原宿:概要 楢原宿(福島県下郷町)は会津西街道(下野街道)で、宿場町としての成立年は不詳ですが圓福寺に伝わる「楢原宿古絵図」には寛永17年(1640)の墨書がある事からそれ以前から町割が行われていた事が窺えます。会津西街道(下野街道)が正式に開削されたのは寛永20年(1643)に保科正之が会津藩23万石で入封してからなので、既に前身となる街道の宿場町として整備されていたと思われます。楢原の地は中世以来、奈良原郷の中心地として発展した町で、「楢原宿古絵図」には街道の東側には22戸、西側には22戸の家屋の町割が描かれています。集落的な発生起源は判りませんが楢原宿の中心に境内を構える圓福寺は平安時代の嘉祥元年(848)、慈覚大師円仁が創建したと伝わる古寺である事から、真偽は不詳ながら比較的早くから開けていたと思われます。隣の倉谷宿との間には八幡峠が横たわり、峠の名称の由来となった八幡神社が鎮座しています。八幡神社は室町時代末期の天文24年(1555)に創建された楢原宿の鎮守で、街道を挟んだ反対側には雷神社が鎮座しています。八幡神社と雷神社、八幡峠付近が当時の会津西街道(下野街道)の雰囲気が残されてます。楢原宿の隣の宿場町である田島宿の間には阿賀川が流れていた為、「長野の渡し」が大きな交通の要衝となり、増水や氾濫の際には川止の宿となっています。「長野の渡し」は明治時代にイギリス人女性紀行家イザベラバードも利用しており著書である「日本奥地紀行」にはその時の様子が記載されています。明治17年(1884)に会津三方道路(現在の国道121号)が開削されると、道路から外れた大内宿や倉谷宿、関山宿とは異なり楢原宿には引き込まれた為、大きな衰退は免れています。
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楢原宿:町並み・写真
楢原宿は昭和18年(1943)の火災で多くの家屋を失いましたが、八幡峠から楢原宿を俯瞰すると、大内宿のように、街道側に屋根の妻面を向けた民家の形式や、鰻の寝床のように間口が狭く奥行が長い町割が明瞭に残されています。
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