糸沢宿:概要 糸沢宿(福島県南会津町)が何時頃から宿場町になったのかは判りませんが、元和6年(1620)に会津西街道(下野街道)の前身となる街道の駅所として機能していたとされます。寛永14年(1637)に川島宿に馬次が開始され、以前までは田島宿までだった行程が半減しています。正保4年(1647)に会津藩初代藩主保科正之により正式に会津西街道(下野街道)が開削されると糸沢宿も宿場町の1つとして特定されています。江戸時代初期は、会津西街道(下野街道)が参勤交代の経路だった為、会津藩(福島県会津若松市)をはじめ米沢藩(山形県米沢市)、村上藩(新潟県村上市)、新発田藩(新潟県新発田市)が糸沢宿を利用しています。当時の会津藩の参勤交代は会津西街道(下野街道)、日光街道、奥州街道を経由し、江戸まで5泊6日の行程、1日約40数キロ進んだとされ、糸沢宿は会津城下から約12里半(1里約3.9キロと換算すると48.75キロ)に位置していた事から、早朝早くに会津城下を出立し第1日目は糸沢宿の本陣を宿泊所として利用していました(糸沢宿本陣は現在も現存しており国登録有形文化財に登録されています。又、復元された大内宿の本陣は糸沢宿の本陣と川島宿の本陣を参考にしたとされます。)。又、糸沢宿の背後には難所の1つ山王峠が控えていた為、多くの旅人や商人が宿場を利用し寛永21年(1644)には会津藩の口留番所が田島宿から移されています。江戸時代末期の会津戊辰戦争の際には会津西街道(下野街道)の各地が戦場となり、慶応4年(1868)4月5日には旧幕府軍の大鳥圭介が山王峠の茶屋で山川大蔵と合流し糸沢宿で食事を摂ったとの記録があり、8月28日には新政府軍約2000人が山王峠を越えて糸沢宿に着陣、龍福寺を宿所として利用した安芸藩(広島県広島市)の藩兵が本堂内陣の杉戸に落書きを残しています。
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糸沢宿:町並み・写真
現在の国道は旧海道のバイパスのよう糸沢宿の外側を通っている為、町の中は交通量が少なく、静かな町並みが続いています。町並みの外れの高台には糸沢宿の鎮守である二荒山神社(拝殿は入母屋、正面千鳥破風、鉄板葺、平入、桁行4間、正面1間向拝付。本殿は覆い屋内部の為に不詳。)が鎮座しています。
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