口留番所・関所(栃木県日光市横川)

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横川宿(会津西街道・口留番所・関所)
【 横川宿口留番所 】−会津西街道(下野街道)に始めて口留番所(関所)が設置されたのは寛永4年(1624)、当初は沼田城下(群馬県沼田市)を結ぶ沼田街道が分岐する田島宿栃木県南会津町)にありましたが、寛永20年(1643)、会津藩藩主加藤明成が会津騒動(家臣同士の対立から、一部の家臣が出奔、激怒した明成は出奔した家臣を兵を差し向け殺害させた)を起こし改易、それに伴い、田島宿を含む南山一帯が天領となった為、新たに会津藩主となった保科正之により糸沢宿(栃木県南会津町)に遷っています。さらに、寛文元年(1661)、保科正之の命により横川宿(栃木県日光市)の現在地に遷され、明治維新で街道制度が廃止になるまで、会津領の玄関口として人や物資の出入りの管理が行われました。横川宿の会津側には会津西街道(下野街道)の難所の1つ山王峠が控え、会津地方(陸奥国・福島県)と下野国(栃木県)の国境でもあり、軍事的な要衝だった為、口留番所(関所)が設けられたと思われます。現在は口留番所の建物などの遺構がなく、如意輪観音堂が建立されています。又、敷地内に建立された墓碑の埋葬者、清水伝左衛門は番所の役人として当地に赴任した際、敷地内で村人に盆踊りを踊る許可した事が藩に露呈し切腹したと伝えられています(盆踊りの際、村人の1人が誤って関所の敷地に入ってしまった事や、関所破りが行われたなどの説があります)。
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