田島宿:概要 田島(福島県南会津町)の地は会津地方 と沼田城(群馬県沼田市)を結ぶ沼田街道と、会津地方と下野国(栃木県)を結ぶ街道の結束する交通の要衝で、長く南会津地方を治めた長沼氏の本拠地でした。長沼氏は本城となる鴫山城を築くと、麓には城下町が形成され、鴫山城の北方鎮守として崇敬庇護された田出宇賀神社(長沼氏により伝えられた祇園際は国指定重要無形民俗文化財に指定されています。)や長沼氏の菩提寺である徳昌寺(境内には長沼盛秀の五輪塔が建立され、南会津町指定史跡に指定されています。)などが整備されました。長沼氏は天正18年(1590)の小田原合戦で参陣を果たせず没落しましたが、田島の重要性は変わらず、会津鶴ヶ城主の有力家臣が配されました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際には上杉家執政の直江兼続の実弟である大国実頼が鴫山城の城代として赴任し、近代的な城郭へと大改修が行っています。江戸時代に入ると上杉家は米沢藩(山形県米沢市)に移封となり、会津城(鶴ヶ城)には蒲生秀行が60万石で入封し会津藩を立藩、田島は会津藩領に組み込まれ、蒲生家の家臣小倉行春が鴫山城の城代として赴任、後に会津西街道(下野街道)と呼ばれる前身の街道の宿場町として整備されたと思われます(小倉行春は田出宇賀神社の例祭を再興したとも云われています)。
田島宿は交通の要衝として重要視され寛永4年(1624)には口留番所が設置され、会津領内の人や物資の出入りの管理が行われました。寛永20年(1643)、会津藩藩主加藤明成が改易になると、山形藩(山形県山形市)から保科正之が会津藩に入封、この際、田島宿の周辺は天領となった為、それに伴い口留番所は糸沢宿に移されています。保科正之により正式に会津西街道(下野街道)が開削されると、田島宿も引き続き宿場町として認められ、元禄6年(1693)に天領代官陣屋(田島陣屋)が築かれ当地の天領行政の中心地となりました。
江戸時代中期以降、度々飢饉などに見舞われると村々が疲弊し、享保5年(1720)には南山御蔵入騒動(大百姓一揆)が発生し、中心人物6名が死罪獄門の刑となり、天明8年(1788)に幕府巡見使の随員として田島宿で宿泊した古川古松軒は人柄が悪く、言葉が悪く、食べ物が少なく、まずい、と酷評しています。それでも、南会津地方の中では最大級の宿場の規模を誇り毎月一の日と六の日に六斎市が立ち、物資の集積場としても当地域の経済的中心でした。 明治17年(1884)に会津三方道路(現在の国道121号)が開削されると、道路から外れた大内宿や倉谷宿とは異なり、田島宿には引き込まれた為、経済的な中心は変わらず、南会津郡役所が設置された事で引き続き行政的にも中心を維持しました。明治11年(1878)に会津西街道(下野街道)を旅したイギリス人紀行家イザベラバードも田島宿を通過し、著書「日本奥地紀行」では「日本の町としてはたいそう美しい」と評しています。現在の田島宿は道路の拡幅と、その後の近代化や建替えなどにより当時の宿場町の風情は失われつつあります。
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