会津三方道路:概要 明治時代に入ると、江戸時代からの会津五街道と呼ばれた会津西街道(下野街道)、白河街道、二本松街道、米沢街道、越後街道は幅員(道幅)や路面の仕上げ、経路など、近代交通機関の普及に伴い対応に不具合が生じた為、新たな近代交通網の整備が望まれていました。明治15年(1882)に福島県令となった三島通庸は特に会津西街道(下野街道)、米沢街道、越後街道からの物流、交通を重要視した為、新たな経路となる会津三方道路が開削されました。三島通庸が福島県令に就任したのは明治15年(1882)1月で、8月には工事が起工、その間には工事そのもの反対、経路の誘致反対、土地の買収などの問題が山積で、さらに政敵だった福島県会議長の河野広中が自由民権運動を展開し大きく対立しました。三島通庸は旧会津藩士を半ば用心棒的に利用する為に会津帝政党を発足させ、河野広中が率いる自由党に圧力をかけると共に、会津三方道路の反対者に対しても嫌がらせに近い形で強引に問題を解決していきました。三島通庸は警察や司法にも手を廻していたようで、会津帝政党が行った犯罪に近い行為も黙認されました。さらに、財政面は困窮していた為、そもそも会津三方道路を完遂する財源が確保されておらず、周辺住民には強制的に工事の人夫として借り出し、それに応じない者には労働力の対価として金銭を強要し、支払らえない者や支払いを拒否した者は、家財を競売にかけ、それさえ無かったものは日用品まで競売にかけさせたと伝えられています。明治17年(1884)に会津三方道路は竣工したものの、反対運動から喜多方事件や福島事件などが勃発し、まさしく多くの血と涙、汗が流され、福島県の住民が大きく疲弊しました。
大内宿と会津三方道路 会津西街道(下野街道)の代りに開削されたのが会津三方道路のうちの日光街道で、今まで会津西街道(下野街道)の宿場町だった福永宿(福島県会津美里町)、関山宿(福島県会津美里町)、大内宿(福島県下郷町)、倉谷宿(福島県下郷町)は通過せず、阿賀川沿いに大きく経路を改変した為、必然的に福永宿、関山宿、大内宿、倉谷宿は大きく衰退する事になりました。これにより、大内宿をはじめ上記の宿場町は大規模な近代化が図られず、次第に一山間集落として農業主体の生業となり、さらに時代が下がると過疎化に見舞われます。大内宿の住民は収入的にも恵まれなかった事から、近代的な建物への建替えも消極的だった為、奇跡的に現在のような町並みが残される事となりました。大内宿が本格的に町並みの調査が入ったのが昭和42年(1967)、武蔵野美術大学の学生によるもので、これにより大内宿の価値が認識されるようになり、昭和56年(1981)には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
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湯野上温泉:町並み・写真
会津三方道路と湯野上温泉−会津三方道路が開削されると大内宿は衰微しましたが、一方、道筋上にあった湯野上温泉は注視されるようになりました。湯野上温泉は奈良時代の開湯ながら周辺住民や一部の旅人のみの利用に留まっていたものの、交通量の増加に伴いは明治20年(1887)に清水屋が本格的な温泉旅館を開き、温泉街を形成するに至りました。
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