横川宿:概要 横川宿(栃木県日光市)が何時頃、宿場町として成立したのかは判りませんが、宿場の外れには那須地方の豪族で塩谷氏の姫君で鴫山城(福島県南会津町)の城主長沼氏に嫁いだ三依姫の墓碑と伝わる宝篋印塔(日光市指定文化財)が建立されており、室町時代には集落として既に存在していたと思われます。横川宿の背後には会津地方と下野国の国境となる山王峠が控えていた事から、軍事的な要衝として重要視され、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際には会津上杉家執政直江兼続は山王峠の要塞化と、鶴が渕城(栃木県日光市三依)の築城を命じ、横川宿には兵300名を配置させました(鶴が渕城には150名)。江戸時代に入り、正式に会津西街道(下野街道)が開削されると、会津城下から15里24町離れ家屋32軒の宿場町として整備されています。寛文元年(1661)には山王峠の反対側の糸沢宿(福島県南会津町)に設置されていた会津藩の口留番所(関所)が横川宿に移され、会津藩の玄関口として人物や物資の出入りを管理しました。江戸時代末期に行われた会津戊辰戦争の舞台でもあり慶応4年(1868)4月4日には旧幕府軍の大鳥圭介は田島宿(福島県南会津町)に戻る途中に横川宿で宿泊しています。明治11年(1878)、イギリス人女性紀行家イザベラバードが会津西街道(下野街道)を旅した際には横川宿で昼食を採り、その日の内に山王峠、糸沢宿に抜け川島宿(福島県南会津町)で宿泊しています。大内宿(福島県下郷町)などと同様に宿場の宿賃や、物資輸送の手助けなど宿場の仕事だけでは生活出来ず、農業や林業なども生業とする「半宿半農」が行われていました。鎮守は町並みから少し外れた街道沿いに鎮座している示現神社(村社・祭神:味耜高彦根命)で、日光市内の会津西街道(下野街道)街道沿いには同じ社号を持つ神社が点在している事から、何らかな信仰が根付いていたのかも知れません。口留番所の跡地に隣接する如意輪観音堂は江戸時代後期に建てられた貴重な建物として日光市指定文化財に指定されています。
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横川宿:町並み・写真
近代的な道路がバイパス風に宿場内を通らなかった為、横川宿は比較的に当時の宿場町の町並みの雰囲気が残されています。現在残されている古民家の多くは木造平屋建て、入母屋、妻入で、旧旅籠と思われる「福田屋」は木造2階建、寄棟、平入、「ゑび寿屋旅館」は木造平屋建、入母屋、平入、敷地間口も一般的な町屋より2倍以上ある為、町並みの中でも異彩を放っています(昭和40年代までは20棟程の茅葺屋根の古民家が軒を連ねていたようです)。
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