宝篋印塔(栃木県日光市横川)

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横川宿(会津西街道・宝篋印塔)
【 横川宝篋印塔 】横川宿(栃木県日光市)の町並みの外れの会津西街道(下野街道)沿いに建立された宝篋印塔で、形状や形式から安土桃山時代に製作されたと推定される石造物です。宝篋印塔とは中国の呉越王銭弘俶が延命を祈願する為に、領国内に建立した8万4千塔(金塗塔)を模したもので、日本では身分の高い人物の墓塔や供養塔の形式と採用されています。横川宿に建立されている2基の宝篋印塔は搭身が118cm、115cmと大型で意匠的にも優れている事から、相当身分が高い武家の供養塔とされ、横川宿の共同墓地に三依姫の墓碑が建立されている事から三依姫の供養塔とも云われています。三依姫とは長く川崎庄(栃木県矢板市川崎)を支配した塩谷氏の当主塩谷左衛門尉の姫君(大津入道梅雪女)で、南山地域(福島県南会津地方)を支配した鴫山城の城主、長沼氏との血縁関係を築く為に長沼実国に嫁いだとされます。その後、実国は三依姫と共に隠居城である鶴渕城(栃木県日光市三依)に遷りましたが、天正18年(1590)に河原田氏の侵攻と、豊臣秀吉による奥州仕置きにより長沼氏は没落(宗家の血筋は伊達家の家臣として存続)、三依姫は横川宿に身を寄せ病死した事から、当地に埋葬されたと伝えられています。横川宝篋印塔は安土桃山時代の意匠的に優れた石造物として貴重な事から昭和48年(1973)に日光市(旧藤原町)指定有形文化財(建造物)に指定されています。
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