龍福寺(福島県南会津町)

大内宿(ホーム)糸沢宿(福島県南会津町)>写真
糸沢宿(会津西街道・龍福寺)
【 龍福寺 】−熊野山長澤院龍福寺(福島県南会津町)の創建については以下のような伝承が伝えられています。文治5年(1189)、源平合戦の英雄となった源義経は大功の大きさから増長し、鎌倉幕府初代将軍に就任した源頼朝の命にも逆らい対立姿勢を見せた為、追討を受けました。多くの家臣が義経から離れ従う者も少なかった事から京都から縁のある奥州平泉(岩手県平泉)を本拠とする奥州藤原氏の下に向う為、会津西街道(下野街道)を北上し糸沢宿付近の民家に密かに宿を取り、再び奥州平泉を目指しました。その際、随行者の1人、渡邉内膳守義政が糸沢の地に残り、建暦2年(1212)に龍福寺を開山、建保5年(1217)に死去した際には龍福寺の寺領内の北側の平坦地に葬られ五輪塔が建立されたと伝えられています。一般的に義経の奥州平泉への逃避伝説は、室町時代に成立した軍記物「義経記」の影響で、日本海側に集中し、次いで太平洋側の東山道沿いに伝えられています。糸沢宿のように会津の奥地に義経の伝説が残っているのは極めて珍しく興味深い所です。その後の龍福寺の詳細は不詳ですが永禄年間(1558〜1570年)に鴫山城の城主長沼盛勝により再興され祐請上人を招いて中興開山しています。当初は荒海川向かいに境内を構えていましたが慶長年間(1596〜1615)に現在地に境内を遷しています(この頃に糸沢宿の町割が行われたのかも知れません)。幕末の会津戊辰戦争の際には会津西街道(下野街道)が主戦場の1つとなった事から旧幕府軍(会津軍)、新政府軍共に糸沢宿を利用し、慶応4年(1868)3月15日には会津藩の山川大蔵が1千名の会津兵を率いて田島宿や糸沢宿に着陣、逆に8月28日には新政府軍約2000人が山王峠を越えて糸沢宿に着陣し、龍福寺には芸州藩(広島県広島市)兵が宿所として利用しています。その際、本堂内陣の板戸の襖を逆にして「芸州弐番隊」の落書きを行い、現在でもその襖が残されています。境内奥に建立されてる馬頭観音堂(宝形造り、銅板葺き、三間四方)は御蔵入三十三観音霊場第21番札所(札所本尊:馬頭観音座像・御詠歌:みての糸 みちびき給え観世音 大慈大悲の ちかいあらたに)に選定されています。宗派:真言宗。
スポンサーリンク
※ 相談や質問は大変失礼ですが、メールのみとさせていただきます。 回答によって不都合や不利益をこうむっても当サイトは一切責任を負いません。又、回答を直接的(当サイトの名前を使って)に交渉や請求の手段とすることはご遠慮くださるようお願い申し上げます。 予告なしに追加、書き替えを行いますのでご了承ください。文章や画像のコピーや利用は行わないでください。※プライバシーポリシーはこちらです。