糸沢宿(南会津町)概要: 糸沢宿は会津西街道(下野街道)の8番目の宿場町で背後に山王峠(福島県南会津郡南会津町と栃木県日光市の境界にある峠)を控えたいた事から会津藩(福島県会津若松市)や村上藩(新潟県村上市)、新発田藩(新潟県新発田市)など参勤交代で会津西街道を利用した大名が宿泊として利用していました。又、陸奥国と上野国との国境に近かった事から、重要視され江戸時代初期には会津藩の関所も設置されました(当初の関所は寛永4年:1624年に田島宿に設けられ、寛永20年:1643年に田島が天領になった為、寛永21年:1644年に糸沢宿に移され、寛文元年:1661年に会津藩主保科正之の命により横川宿に移されました)。
宿場の成立は不詳ですが元和6年(1620)には既に宿駅として機能していたとされ、旅人や物資の運搬も糸沢宿で宿泊する事が多く周辺の宿場町の中では大きく発展しました。天明8年(1788)の記録では家屋126軒、人口539人と周辺の宿場や集落の中でも規模が大きく中心的な立場だったようです。
現在でも本陣(阿久津家住宅:国登録有形文化財、阿久津家は本陣職の他、問屋や村名主なども勤めた)の遺構が残る他、戊辰戦争の際には官軍の宿営地となり龍福寺では芸州藩(広島藩:広島県広島市)兵の1人が落書きしたと思われる「芸州弐番隊」の文字が残されています。
明治11年(1878)にはイギリス人女性紀行家イザベラバードが会津西街道を北上し、糸沢宿も通過しており、著書である「日本奥地紀行」で「糸沢では、借り出した馬がひどく躓くので、最後の宿場間を歩いて川島に着いた。」と記載しています。
二荒山神社: 詳細は不詳、糸沢宿外れの高台に鎮座し、鎮守と思われます。社号から二荒山神社の分霊が勧請されたものと思われます。拝殿は入母屋、金属板葺、正面千鳥破風、桁行4間、梁間3間、1間向拝付、華美な意匠は無く質実な印象を受けます。本殿は覆い屋の為不詳。鳥居は両部鳥居。
会津西街道(下野街道):宿場町・再生リスト
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