行地宿(越後街道)概要: 行地宿(新潟県阿賀町)は越後街道(会津街道)最大の難所とされる諏訪峠を控えた越後街道(会津街道)の宿場町です。特に諏訪峠を重視した会津藩(本城:鶴ヶ城)は石畳を整備し現在でも随所のその名残を見る事が出来、行地宿から少し入った山中には街道の左右一対の一里塚(高さ約3m、円周約30m)が残されています。
幕末に越後街道を踏破した吉田松陰は諏訪峠について「諏訪嶺、雪深く路険し、行歩甚だ難む」と語っています。又、文化11年(1814)に訪れた江戸時代後期の戯作者、浮世絵師である十返舎一九は著書「諸国道中金の草鞋」で「あいづよりゑちごしばたまでいたるかいどうのうち、このとうげほどたかくなんぎなるはなし」と記しています。
戊辰戦争の際には行地宿の旅籠である「藤屋」が新政府軍の本陣となり、山県有朋が約1カ月の間、ここで指揮を執りました。行地宿の町並みも街道沿いには旧家が点在し雰囲気が感じられますが大きな宿場ではなかったようです。
行地宿の鎮守と思われる鹿島神社は入母屋、鉄板葺、妻入、桁行2間、外壁は真壁造、素木板張、祭神は大山祇命(一般的に鹿島神社は武甕槌大神が祭られていますが、当社の前身神社は山神社と毘沙門天神社である事から祭神として大山祇命が祭られ、毘沙門天が武神だった事から、同じく武神だった甕槌大神が祭られている鹿島神社を社号として採用されたのかも知れません)。
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