会津若松市: 大龍寺

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概要・歴史・観光・見所

大龍寺(飯盛山・会津若松市)概要: 宝雲山大龍寺は福島県会津若松市慶山2丁目大龍寺(飯盛山・会津若松市)の境内に葬られている小笠原長時と正室の墓碑に境内を構える臨済宗妙心寺派の寺院飯盛山の南西麓に位置しています。大龍寺の創建は安土桃山時代の天正年間(1573〜1580年)に寺号「桂山寺」として開かれたのが始まりとされます。信濃国(現在の長野県)の守護職で松本城(深志城:長野県松本市)の城主だった小笠原長時は武田信玄の信濃侵攻により上杉家を頼り越後国(現在の新潟県)に逃れ、その後、織田信長を経て、蘆名盛氏の客分となり天正11年(1583)に会津で没すると桂山寺に埋葬されています(境内には長時と室・息女の墓碑が建立されています)。

その後、桂山寺は無住となり衰微しましたが、寛永20年(1643)に保科正之が会津藩(藩庁:鶴ヶ城)に入封すると、機外禅師を招いて中興開山し寺号を「大龍寺」に改めました。

大龍寺は江戸時代には寺領100石が安堵される会津藩の家臣達の菩提寺となり和算家で暦学者の安藤有益や新島八重を輩出した山本家の墓碑が建立されています。戊辰戦争の際、大龍寺の境内は新政府軍の野戦病院として利用された為、大きな戦禍からは免れ、本堂前には「戊辰戦争殉難殉節供養の碑」が建立されています。

明治時代初頭に発令された神仏分離令により廃寺となった成就院の仏像仏具は大龍寺17世太宗玄義和尚により当寺に遷され、特に不動明王像は長命不動尊として信仰の対象となり東北三十六不動尊霊場第32番札所となっています。

現在残されている大龍寺の堂宇は江戸時代初期に造営されたもので、山門は寄棟、大龍寺(飯盛山・会津若松市)に葬らている新島八重の生家である山本家の墓碑銅板葺き、三間一戸、桁行3間、張間2間、八脚単層門。本堂は木造平屋建て、寄棟、銅板葺き、平入、桁行7間、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。不動堂は木造平屋建て、寄棟、銅板葺き、平入、桁行3間半、梁間2間半、正面1間向拝付き。大龍寺庭園は元禄9年(1696)に御薬園を作庭した目黒浄定によって作庭された遠州流の庭園で、園内には京都高尾・嵐山から「大龍寺のかえで」が移植されています。東北三十六不動霊場第32番札所(札所本尊:不動明王(長命不動尊)・御詠歌:いま無事を ありがとうとて ただ参る 会津を望める 長命不動)。会津七福神:布袋尊。会津十二支守り本尊(酉:不動明王)。山号:宝雲山。宗派:臨済宗妙心寺派。本尊:聖観世音菩薩。

大龍寺:上空画像

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板(由緒)-宝雲山大龍寺
【 付近地図 】
福島県会津若松市一箕町大字八幡滝沢


大龍寺:ストリートビュー

大龍寺:写真

大龍寺参道正面の石造寺号標
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大龍寺参道石段から見上げた山門の画像 大龍寺木々に囲まれている山門 大龍寺山門から垣間見える境内の様子 大龍寺本堂とその前に建立されている石燈篭と戊辰戦争殉難殉節供養の碑
大龍寺本堂外壁から見た唐破風屋根の玄関と庫裏 大龍寺境内に設けられた鐘楼 大龍寺鐘楼に吊り下げられた梵鐘 大龍寺不動堂に祭られている長命不動尊は東北三十六不動尊霊場第32番札所

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