白河市(歴史)概要: 白河市の歴史は古く、古代は陸奥国最南端である白河郡に属していました。関東に接している事もあり白河市に隣接する泉崎村には関和久官衙が置かれ中心的機能を果していました。
陸奥国府が置かれた多賀城(宮城県多賀城市)と中央とを結ぶ東山道も整備され白河市の南端には「白河の関」(白河市旗宿)が設けられ蝦夷を押える最終防衛ラインとなっていました。
白河の関は奥州の玄関口として知られ、能因法師、松尾芭蕉、藤原家隆、源頼義・義家・義経などの伝承が残っています。中世に入ると白川城(白河市藤沢山)を居城とした白河結城氏が台頭し、南北朝時代では南朝側(後北朝)の有力大名として勢力を伸ばし南奥羽から北関東まで権力が及んだと言われています。
戦国時代に入ると北方の伊達氏と南方の佐竹氏に挟まれる形となり次第に領地が浸食され、佐竹氏から養子を迎えるなど従属的な立場となっていきました。結城義親が家督に復権(佐竹氏の養子だった義広を追放)すると伊達氏と緊密になった為、小田原参陣を果せず奥州仕置きにより改易させられます。
その後は、蒲生氏、上杉氏と短期間で領主が替わり、寛永4年(1627)に丹羽長重が10万石で入封すると小峰城(白河市郭内)を改修し、城下町を建設するなど現在の白河市の祖となる町づくりを展開します。
丹羽氏が二本松藩に転封になると松平氏(14万石)、本多氏(12万石)、松平氏(奥平−15万石)、松平氏(越前−15万石)、松平氏(久松−11万石)、阿部氏(10万石)と譜代大名が短期間に次々と替わり、一般的な藩風というものが育ちにくい環境にありました。その中でも松平定信は名君とされ、南湖(白河市南湖)の築園を始め数々政策で藩を立て直したました。幕末には天領となり藩主が不在のまま明治維新を迎えます。
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