白川城(搦目城)概要: 案内板によると「 白川城は、白河市街の東方、阿武隈川の川筋を南から一望できる丘陵につくられました。御本城山(館山)と呼ばれる山頂の平坦部は空濠と土塁で守られた白川城の中心部にあたり、この周辺に防御のためにつくられたたくさんの平坦地や土塁が広がっています。源頼朝による奥州合戦の結果、白川庄の地頭となった結城白川氏は、この城を本拠地として北関東から奥州にかけて活躍しました。特に、南北朝時代には宗広・親光父子が南朝(吉野方)の中心的存在として奥州軍を率いて京都周辺まで2度も遠征し、北朝方の足利尊氏軍と戦いました。江戸時代になって、内山重濃が宗広・親光父子の業績を伝えるために、白河城主松平定信の撰んだ「感忠銘」の三文字と、当時の白河藩最高の学者であった広瀬典の文章を城跡の北東部分に断崖に彫ったものが感忠銘碑です。 福島県教育委員会 」とあります。
白川城は鎌倉幕府の有力御家人だった結城朝光の孫にあたる結城祐広が白河郡の一部を与えられ、康元元年(1256)、又は正応2年(1289)頃に当地に下向した際に築かれたと推定されています。祐広の後裔は地名に因み「白川」姓を掲げ、白川城を本拠として長く当地を支配しました。祐広の跡を継いだ白川宗広は南北朝時代に南朝方の有力武将として活躍し陸奥国府式評定衆に任ぜられ、度々奥州の武将を率いて京都まで進軍し名を挙げました。
その後、一族である小峰氏(白川親朝の2男朝常の血統:小峰城の城主)と共に勢力を拡大し7代目白川直朝の代には北関東まで版図を築き最盛期を迎えましたが、8代白川政朝の代には両家の対立から衰退し、9代白川顕頼は事実上小峰直常の庇護を受ける立場となり、白川城を廃して、小峰氏の本拠である小峰城に入っています。
白川氏はその後も常陸の佐竹氏や下野の那須氏の台頭を受け徐々に勢力を弱め、天正18年(1590)の小田原の役で豊臣方に参陣しなかった事から奥州仕置きの際に改易となり大名家からは没落しています。
白川城主郭部分はよく整備され、後村上天皇聖蹟之碑や小祠が鎮座し一部に土塁らしき遺構も見られます。一段下がった所には「結城宗広公六百年忌追善供養塔」がありそれを取り囲むように土塁が築かれています。所々に土塁や堀切と思われる地形が見受けられ比較的に保存状態は良好ですが、案内板や説明板が少ない為、全体像は把握しにくいかも知れません。白川城跡は大変貴重な事から城域366597.43uが平成28年(2016)に国指定史跡に指定されています。
白川城:上空画像
|