烏峠稲荷神社(泉崎村)概要: 烏峠稲荷神社は泉崎村烏峠地内に鎮座している神社です。烏峠稲荷神社の創建は平安時代の初期にまで遡ります。伝承によると東夷東征の任に着いた藤原俊仁が苦戦を強いりこの峠まで敗走し退路を断たれました。その時、西の空から1羽の烏が光輝くものを落としていき、それを白狐が咥え山頂へ消えたそうです。
家臣が後をつけると山頂に小さな祠があった事から、烏が大和国烏ヶ嶺稲荷大明神の使いだった事を悟り、戦勝祈願した後、再び戦を挑んだ所、見事勝利を得たそうです。その故事から天長5年(828)に峠の山頂に社殿を造営し峠を烏ヶ嶺と名づけたと伝えられています。
藤原俊仁とは平安時代初期に鎮守府将軍に就任し陸奥国に大きな影響力を行使した藤原利仁の事で、室町時代に制作された物語である「田村の草子」では坂上田村麻呂をモデルとした田村将軍藤原俊宗の父親として登場し英雄譚として描かれている事から烏峠稲荷神社の創建伝説に大きな影響を与えたと思われます。
烏峠稲荷神社は歴代領主や近隣住民達から崇敬され、承和元年(834)に真言宗の開祖である弘法大師空海が17日修業し、永承7年(1052)に源頼義が前九年合戦の戦勝を祈願し社殿を修復、建久7年(1196)に鎌倉幕府初代将軍である源頼朝が奥州合戦の勝利に感謝し社殿の造営しています。
江戸時代に入ると歴代白河藩の藩主から崇敬庇護され明和元年(1764)には松平定賢が社殿を修復、寛政11年(1799)には松平定信が社殿を修復などが行われています。
烏峠稲荷神社境内には入母屋、銅板葺き、三間一戸、桁行3間、張間2間、八脚楼門の神社山門(随身門)があり神仏混合の名残が見られます。
烏峠稲荷神社本殿は江戸時代中期に造営された一間社流造、銅板葺き、外壁は真壁造り板張りの古建築物で、木鼻、懸魚、蟇股、突板、扉など建物全体が龍や獅子、鳳凰、中国故事などの彫刻が施され、貴重な事から昭和51年(1976)に泉崎村指定有形文化財(建造物)に指定されています。拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、桁行3間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造板張り。祭神:倉稲魂命。
烏峠稲荷神社:上空画像
【 参考:文献等 】
・ ふるさとの文化遺産-郷土資料辞典7[福島県]-株式会社人文社
・ 現地案内板(烏峠稲荷神社にまつわる伝説)
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