三春町(歴史)概要: 三春町は中世、田村氏の城下町として発展してきた町です。田村氏は坂上田村麻呂を祖にする名族として代々田村郡の三春を中心に、安積郡、岩瀬郡などに勢力を伸ばし田村清顕が当主の時代に最盛期を迎え9〜10万石を領する大名へ成長していきました。
戦国時代末期になると伊達氏が台頭してきた為、田村氏は政宗の正室として清顕の娘愛姫を差し出すなど従属関係を強くしていきましたが、伊達氏の策謀により小田原の陣に参陣しなかった為、奥州仕置きにより改易させられます。伊達氏は田村氏を吸収しようとしましたが多くの家臣が仕官を断ったといいます。
江戸時代に入ると三春藩が立藩、蒲生氏、加藤氏、松下氏と短期間に藩主が代わり正保2年(1645)に常陸国宍戸より秋田氏が5万5千石で入ります。秋田氏は古代俘囚長であった安倍氏の末裔とされ、秋田県の土崎湊(秋田市土崎)を中心に秋田県の中心部から北部一帯を納めた大名で、表高は5万2千石でしたが太閤蔵入地2万石、秋田杉の美林、豊富な鉱山資源、日本海の海運などを背景に大きな影響力をもっていました。
関が原の合戦でも東軍側に軍を送りましたが、長年敵対関係にあった最上氏が幕府に働きかけ事実上減封(表高は変わらず)の形で常陸国宍戸へ移りました。秋田氏は三春城を整備するとともに居館は現在の三春小学校へ移しより近代的な藩運営を心掛けます。三春町は四方に街道が延びる交通の要所だった事もあり城下町には武家町を中心にしながらも商人町も充実させていきました。
又、現在の三春町が「東北の小鎌倉」として知られるように秋田氏の菩提寺である高乾院や龍穏院をはじめ田村氏縁の田村大元神社や福聚寺など多くの社寺仏閣を勧請又は庇護し現在の三春町の祖となるような町づくりを展開していきます。
戊辰戦争時は白石城(宮城県白石市)で調印された奥羽越列藩同盟に一端は組みしますが逸早く官軍に降伏して三春城は無血開城し城下は戦火にさらされる事がなかったと言います。明治に入ると三春町には「正道館」という政治教育をする私塾ができ、河野広中を中心に「三師社」という組織をつくりあげ福島県内の自由民権運動の中心となり明治15年福島事件がおきると広中は検挙されています。
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