檜枝岐村(歴史)概要: 檜枝岐村の歴史は古く縄文時代の遺跡が点在している事からも古来から人々が住んでいた事が分かります。檜枝岐村は四方が山に囲まれているという地理的条件から外部と隔絶した要素が強いことから京都などの中央から移住者が多く、平家落武者伝説や楠家が移り住んできたなどと語り継がれ、檜枝岐村史にも延暦13年(794)に紀州牟漏郡星の里から藤原金晴が承和11年(844)には越後から藤原常衡・大友師門・熊谷勘解由が移り住み村を開いたとの記述があります。その事からなのか、檜枝岐村の方言には周辺地域と異なり中央なまりが随所に見られるそうです。
文治5年(1189)に河原田近江守藤原盛光が伊南郷の領主となり長く檜枝岐村を含む伊南川流域一帯を支配し久川城を築くなど領土経営をします。河原田氏は会津四家の一家として地位を固めていましたが、天文12年(1543)に鶴ヶ城を居城とした芦名氏が檜枝岐村に侵攻し河原田氏は臣従することになります。天正19年(1589)の摺上原の戦いで伊達政宗に敗れた芦名氏は急速に勢力を落とす中、河原田氏は伊達氏と抵抗し久川城に籠城、一年間も戦い続けついに伊達勢を撃退しました。しかし、その後も緊張状態が続いていた事で小田原攻めに参加できず奥州仕置きにより領地を没収、芦名氏を頼り江戸崎(茨城県稲敷市)、後に角館(秋田県仙北市角館町−武家屋敷河原田家住宅として現存)に従っています。
その後は短期間の間に蒲生氏、上杉氏、蒲生氏、加藤氏と次々と領主が変わり、寛永20年(1643)から南山御蔵入として会津藩主の保科家が管理、元禄元年(1676)に保科正容の代で御蔵入の地を返上したことで幕府直轄地となりました。檜枝岐村はロウの主産地や豊富な材木の生産地として重要視され沼田街道沿いの領地境には檜枝岐口留御番所が設けられ領内の出入りは制限されました。戊辰戦争ではは会津藩士約三百名が檜枝岐村に配置され土塁などの遺構もあるそうです。
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