喜多方市(歴史)概要: 喜多方市の歴史は古く、糠塚古墳や輪具古墳などの古墳があり当時から開けていた地域で豪族などが支配していたことが分かります。鎌倉時代になると幕府の御家人だった三浦氏の一族佐原氏が会津4郡を与えられ喜多方市含む会津一帯を支配します。佐原氏は後に鶴ヶ城(会津若松城)を居城とする芦名氏を輩出し南奥羽を支配する大大名へと成長していきます。
喜多方市では佐原氏一族の新宮六郎左衛門時連が建暦2年(1212)に新宮城を同じく五郎左衛門盛時(加納氏)が青山城を築き支配します。当初は同族同士だった事もあり友好的でしたが次第に独立した国人領主的存在となり争いが絶えない状態になり加納氏は応永九年(1402)に新宮氏に攻められ滅亡、続いて新宮氏の居城である新宮城も応永27年(1420)に芦名氏によって攻撃され落城しています。
喜多方の集落的な発生が何時頃かは判りませんが南北朝時代の永和元年(1375)に諏訪大社(信濃国一宮)から祭神の分霊を勧請し、小荒井村の産土神として諏訪神社を創建している事から少なくとも室町時代初期には成立していたと思われます。
戦国時代の永禄7年(1564)には当時の領主芦名盛氏の命により改めて小荒井村の町割が行われ、毎月2と7の付く日に市(六斎市)が立つようになり、天正10年(1582)に芦名氏の家臣、左瀬大和が小田付村の町割が行われると、市は小荒井村と小田付村が交合に三斎市が立つようになります。
天正17年(1589)に芦名氏は摺上原の戦いで伊達政宗に敗れた事を受けて本家筋の佐竹家を頼り常陸国(現在の茨城県)に退去し、会津黒川城(福島県会津若松市)には政宗が入ります。
しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉の奥州仕置きにより政宗は惣無事令違反を咎められ、旧芦名領は没収され、会津黒川城には秀吉の家臣蒲生氏郷が入ります。
氏郷は領内の整備の際、農村部における市場の育成に尽力した為、小荒井村と小田付村は在郷町としての地位を確立し、周辺からの物資の集積場として発展する事になります。両村に財が集まるようになると、豪農、豪商を輩出するようになり、特に喜多方は良質な清水が豊富だった事から酒造業や醸造業(味噌・醤油)を営む者も現れ、数多くの蔵が建てられるようになりました。
近世以降の喜多方市は米沢と会津城下を結ぶ米沢街道の宿場町として、多くの物資が集められ商業として発展していきます。米沢街道は豊臣秀吉や保科正之、伊達政宗、上杉景勝など多くの武将が通った街道で出羽三山(山形県鶴岡市)詣でや円蔵寺柳津虚空蔵尊詣でなどで利用されました。又、商業の他にも良質の米と水が豊富だった事から醸造業が発展し酒をはじめ、味噌、醤油などが造られるようになりました。
明治時代に入ると周辺地域の行政の中心となり、明治8年(1875)には小荒井村と小田村など5カ村が集まり喜多方町が成立、耶麻郡役所も喜多方に置かれる事となります。又、明治16年(1883)には福島県令である三島通庸が会津三方道路を開削すると、幹線道が喜多方を通る事となり経済的基盤が確立し、喜多方製糸工場の開業なども重なり飛躍的に発展しました。
さらに、明治38年(1905)には加納鉱山が近代化に伴い産出量が増大し、働く工夫の消費地となり、多くの商人が莫大な利益を得て次々土蔵造りの建物が建てられました。
土蔵造りの建物が建てられる契機となったのが明治13年(1880)の喜多方大火で多くの家屋が焼失した事で、これにより多くの人が火事に強い土蔵を求めるようになり、さらに、土蔵造りが富の象徴として位置付けられるようになると、意匠に富んだ建物や座敷蔵、又は、蔵座敷と呼ばれる格式の高い建物も建てられるようになりました。
本来、土蔵造りは気温や湿度の変化が少ない事から貯蔵用に採用される形式ですが、喜多方では居住性の良さから住居としても土蔵造りを採用し、男性は蔵を建てはじめて一人前に扱われるように考えられ、それに伴い、蔵を建てる大工や左官職人の技術を向上しました。
現在でも喜多方市内には2千棟とも4千棟とも言われる土蔵が現存している事から「蔵の町」の異名があり、昭和61年(1986)には名称「蔵のまち(人と風土が育てた家並)」として国土交通省による手づくり郷土賞に受賞しています。
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