東方薬師如来 |
 恵日寺 |
恵日寺は大同2年(807)に徳一上人により開かれたと伝わる古刹で、平安時代後期にかけて会津地方の仏教の教えを広げる拠点となりました。会津五薬師は真言宗の開祖である弘法大師空海が発願し、徳一上人が受け継いだとの伝承がありますが、空海が東北地方を訪れたとの明確な資料は現在のところ存在せず、一方、徳一上人を示す資料には「陸奥の仏性抄」、「奥州会津県の溢和上」、「奥州の義鏡」、「奥州の北轅者」とある事から東北地方や会津地方と関わりがあった事が明確となっています。恵日寺の繁栄は長くは続かず、源平合戦や伊達政宗の会津信仰の兵火によって衰退を余儀なくされます。その後、再興したものの、往時の繁栄には及ばず、旧境内には建物の礎石をはじめ様々な遺物が発見され国指定史跡に指定されています。会津十二薬師霊場第1番札所。
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北方薬師如来 |
 北山薬師堂 |
北山薬師堂は弘仁年間(810〜823年)に弘法大師空海が当地を訪れた際、この地域の鎮護を目的として護摩祈祷を行い、自ら薬師像を彫刻し安置したのが始まりとされます。北山薬師堂の別当寺院だった大正寺には開山時に植えられたと伝わる大イチョウが健在で北塩原村指定天然記念物に指定されています。当然空海が開山した可能性は極めて低い事から徳一上人が開いた説が有力ですが、大正寺は一時衰退して時期があるようで、そのような記録等が残されていないようです。安土桃山時代から江戸時代初期にかけて会津地方の領主だった蒲生家が篤く信仰した事で、堂宇の再建が行われ、蒲生忠郷が2歳の時に病気平癒の祈願を行い、見事念願成就した事から現在でも2歳児(数え年)の無病息災を祈願する「二つ児参り」が行われています。会津十二薬師霊場第2番札所。 |
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中央薬師如来 |
 勝常寺 |
勝常寺は大同年間(806〜810年)に弘法大師空海が会津地方鎮護の為に尽力したものの、都に戻る事になった為、その跡を継いだ徳一上人が弘仁元年(810)、又は大同2年(807)に開いたのが始まりと伝えられています。勝常寺の本尊である薬師三尊像(中尊:薬師如来座像・脇侍:日光菩薩立像・月光菩薩立像)は形態から平安時代初期(9世紀)に制作されたと推定される事から開山時に徳一上人が関わった可能性が高いとされ何れも国宝に指定されています。創建当時の建物は既に失われていますが、室町時代に建立されたという勝常寺薬師堂は大変貴重な存在で国指定重要文化財に指定されています。会津十二薬師霊場第4番札所。 |
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西方薬師如来 |
 上宇内薬師堂 |
上宇内薬師堂は会津五薬師の中で唯一、空海や徳一上人とは異なる由緒を持ちます。元々は欽明天皇元年(540)、梁の国出身の高僧とされる青巌によって開かれたと伝わる高寺(後の恵隆寺)の坊の一つ調合坊で、建久元年(1190)に高寺が廃寺になると調合寺として独立し現在地に境内を構えたとされます。本尊の西方薬師如来は調合坊の時代から本尊だったとされる事から他の4寺とはやや趣が異なります。本尊の木造薬師如来座像は10世紀後半頃に制作されもので、桧材、一木造、像高180.5cm、国指定重要文化財に指定されています。その他にも、脇侍の日光菩薩と月光菩薩像、虚空蔵菩薩像、聖観音菩薩像が福島県指定文化財に指定されています。会津十二薬師霊場第6番札所。 |
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南方薬師如来 |
 野寺薬師堂 |
野寺薬師堂は大同2年(807)に磐梯山の山麓に恵日寺を開山した徳一上人が、その前年に磐梯山が噴火した事による被害で多くの民衆を救おうとして会津五薬師と創設し、その南薬師として祭ったのが始まりとされます。当初は現在地の後方にある屯台平山の山頂付近にあったそうですが、現在は別当寺院である慈光寺の境内に遷され、さらに慈光寺も無住になった為、滝沢寺が管理しているようです。案内板には徳一上人が彫刻した薬師如来像が安置されているように書かれていますが、詳細は不詳。もし事実であれば当然文化財指定されていると思われますが、指定されていなところをみると後年に制作されたのかも知れません。会津十二薬師霊場第11番札所。
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