小田山(会津若松市)概要: 小田山は標高372.7mの低山ですが、会津では名山で歴史が深い事でも知られています。中腹には古墳時代中期に築造された1号墳(円墳、直径28.5m、高さ3.6m)、古墳時代後期に築造された2号墳(円墳、直径10m、高さ1.4m)、3号墳(円墳、直径10m、高さ0.9m)の3基から構成されている小田山古墳群があり、古くから聖域として考えられていた事が窺えます。
中世に入ると長く会津地方を支配した芦名氏によって小田山城が築かれ、芦名氏の本拠となった居館の詰城として機能しました。中腹から麓にかけて芦名氏の聖地として整備され、文和3年(1354)には芦名家7代目当主芦名直盛の生母である笹谷御前が、観音堂を造営し如意輪山宝積寺の前身となりました。
小田山の中腹に建てられた観音堂を挟むように芦名家の墓域である寿山廟があり3代当主芦名光盛から9代当主芦名盛政までの墓所があったとされます。廟所名は芦名光盛の戒名「祥瑞院殿寿山昌隣大禅定門」に起因しているとされ、各墓塚は何れも小規模で山中にある事から明確ではありませんが、芦名氏の歴史を知る上で貴重な史跡とされます。
小田山の麓に設けられた葦名家花見ヶ森廟は10代目から19代目の墓域で、現在、16代盛氏、17代盛興、18代盛隆の墓碑が残され会津若松市指定史跡に指定されています。
江戸時代末期に発生した戊辰戦争(会津戦争)の際には新政府軍の砲陣が置かれ、小田山から撃ち放たれた大砲が会津藩の本城である鶴ヶ城の本丸を直撃し会津藩に大きな打撃を与えています。
又、山頂には会津藩の家老である丹羽能教や田中玄宰の墓碑、中腹(恵倫寺)には会津藩士柴四郎・柴五郎の墓碑が建立されています。
小田山:上空画像
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