内藤邸跡(会津若松市)概要: 内藤邸跡(白露庭)は福島県会津若松市追手町(福島地方裁判所会津支部)に位置しています。江戸時代末期に会津藩の家老だった内藤介右衛門信節は天保10年(1839)に内藤介右衛門信順の長男として生まれました。
内藤家は会津藩の藩祖保科正之が保科家に養子になる前の保科家の親戚筋で、当初は武田家に仕えていたものの、武田家が没落した為、徳川家に仕えた保科家の重臣となり、家老職を歴任しました。信節は元治元年4月(1864)に26歳の時に若年寄に抜擢、禁門の変の不手際から一時罷免されますが、慶応2年(1866)には復権し家老職に任命されています。
慶応4年(1868)に発生した鳥羽伏見の戦いでは大坂城(大阪府大阪市)を守備し、15代将軍徳川慶喜が江戸に逃げ帰ると、かん口令を出し会津に戻ったとされます。会津戦争では白河口総督として勢至堂口以北の陣将を務めましたが、新政府軍の主力は母成峠から侵攻し、初戦の母成峠の戦いで勝利すると僅か数日の間に鶴ヶ城の城下まで押し迫った為、やむなく鶴ヶ城に帰城し三の丸を守備を担当しています(当初、会津藩では小峰城が落とされると白河街道から新政府軍が侵攻してくると考えていたようです)。
会津藩が降伏すると猪苗代で謹慎、明治2年(1869)に松平容保の嫡男である松平容大に家名存続が許され、明治3年(1870)に斗南藩(青森県むつ市)が立藩すると斗南へ移住しましたが、明治4年(1871)の廃藩置県により斗南藩が廃藩になると、領内だった五戸村(青森県五戸町)に定住し明治32年(1899年)に五戸村で没しています。
内藤邸は鶴ヶ城の大手口の西北角にあたり、周辺は西郷頼母邸など家老屋敷が軒を連ねていた事からも軍事的にも重要視されていたと思われます。敷地は現在、福島地方裁判所会津支部として利用されている為、当時の家屋は失われていますが、「白露庭」と呼ばれる庭園が残され、当時の家老級上級武士の生活の一端を見る事が出来ます。
内藤邸跡:上空画像
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