会津若松市: 融通寺

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概要・歴史・観光・見所

融通寺(会津若松市)概要: 自然山浄縁院融通寺は福島県会津若松市融通寺(会津若松市)大町に境内を構えている浄土宗の寺院です。融通寺の創建は南北朝時代の南朝暦:正平16年/北朝暦:康安元年(1361)、融通念宗の開祖である良忍の弟子、浄縁和尚によって開かれたのが始まりとされます。当初は河沼郡八葉寺村(広田冬木沢)に境内を構えていましたが、至徳元年(1384)、芦名直盛(芦名家7代目当主)が会津に入封した際に館を構えた小館(融通寺町)から黒川城(現在の鶴ヶ城)遷ると、館の跡地を寺地として与えられました。安土桃山時代の文禄元年(1592)に蒲生氏郷鶴ヶ城の大改修に伴う城下町の町割を改めて行うと現在地に境内を遷されました。

融通寺は江戸時代初期の慶長9年(1604)に後陽成天皇の勅願寺になると広く信仰されるようになり、融通寺(会津若松市)元和5年(1619)には会津藩2代藩主蒲生忠郷は生母(振姫:正清院・蒲生秀行正室、徳川家康の三女)の位牌を納め、寺領200石を寄進しています。その後も多くの会津藩主の菩提寺として寺運も隆盛していましたが、江戸時代末期に発生した戊辰戦争(会津戦争)では新政府軍の屯所として利用され、堂宇は残されたものの、寺宝の多くは略奪、又は破棄されています。会津藩が降伏した後は新政府軍の会議所が設置された為、融通寺境内には新政府側の戦死者が葬られ墓碑が数多く建立されています。

又、江戸時代末期に会津藩の御蔵入奉行兼幌役を担った町野主水の菩提寺でもあり一族の墓碑と共に、主水の五輪塔が建立されています。融通寺本堂は木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、桁行6間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、内部には新政府軍が試し切りをしたとされる刀傷が残されています。若松三十三観音(町廻り三十三観音)第12番札所。山号:自然山。院号:浄縁院。宗派:浄土宗。本尊:阿弥陀如来。

融通寺:上空画像


融通寺:ストリートビュー

融通寺:写真

融通寺
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融通寺本堂を正面から撮影した画像 融通寺 融通寺 融通寺


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