会津西街道(下野街道)・概要: 会津西街道(下野街道)の歴史は深く、古くから会津地方と関東地方を結ぶ街道として重要視され、数多くの武将や文人墨客が利用してきました。経済活動の大動脈の1つでもあり、東北地方の特産物が会津城下に集積され、そこから街道を通じて関東にもたらされ、逆に中央の文化が入り込みました。伝承によると以仁王(後白河天皇の第三皇子)が平家打倒を呼びかけたものの、計画が露呈し、結果的に近江の戦いに敗れ越後に逃れる際に利用したとされます。記録的な初見は「新編会津風土記」によると、永正18年(1521)に南山領の領主長沼盛秀が大内峠を越えて会津領に侵攻した事が記載され、少なくとも南山と大内峠、会津の間には軍勢が通過出来る街道が存在していた事が窺う事が出来ます(長沼氏は15世紀にも度々周辺に出兵している事から室町時代には軍事行動出来る程度の整備が行われていたと推察出来ます)。その後も天正18年(1590)の小田原の陣の際には伊達政宗、奥州仕置の際に豊臣秀吉が利用してきましたが正式に会津西街道(下野街道)が整備されたのは正保4年(1647)、会津藩初代藩主保科正之が命じて街道沿いの集落が宿場町とし体裁が整えられ、難所である山王峠が通行し易く開削されています。江戸時代初期には会津藩はじめ、新発田藩や村上藩も参勤交代で利用し、街道筋の宿場町も活況に呈していましたが、幕府の命により白河街道に変更となり、例外を除いては利用されなくなっています。万治2年(1659)の大震災、天和3年(1683)に日光大地震、享保8年(1723)の五十里湖決壊、その他にも大雨や洪水、雪崩など数多くの天災により街道は分断されましたが、その都度、復興され文化交流の大動脈であり続けました。名称は時代と共に変遷し「尾岐道」、「関山街道」、「南山通り」、「関山海道」、「下野街道」と変わりましたが、大筋の道筋が変わらず関東側からの呼び名だった「会津西街道」で定着しつつあります。明治17年(1884)に会津三方道路(現在の国道121号線に略沿っている)が開削された事で急激にその役割は失われましたが、街道沿いには当時の遺構と共に、伝説や伝承が残されました。このサイトでは会津西街道(下野街道)を利用した著名人を中心に取り上げながら、それらに少し触れていきたいと思います。
会津西街道(下野街道)の歴史的文化財
・下野街道−古道、三郡境の塚、茶屋跡、一里塚、馬頭観世音碑など関連遺跡−国指定史跡
・下野街道−福島県田島町・下郷町・会津本郷町−歴史の道百選(文化庁)
・大内宿−種別「宿場町」・面積11.3ha・選定基準(三)−国の重要伝統的建造物群保存地区
・大内宿−「美しい日本のむら景観コンテスト」文化部門−農林水産大臣賞
・大内宿−大内宿の自然用水−日本の音風景100選(環境庁(現・環境省))
・大内宿−美しい日本の歩きたくなるみち500選(社団法人日本ウオーキング協会)
・大内宿−手づくり郷土賞(国土交通大臣表彰)
・大内宿−わたしの旅100選(文化庁:知っていそうで知らない日本の文化の発見)
・大内峠−日本の百名峠(井出孫六が発表した随筆の書名)
・栃沢の一里塚−会津美里町指定史跡
・田部原の一里塚(1対)−南会津町指定史跡
・糸沢宿本陣(阿久津家住宅)−国登録有形文化財
・今泉の馬宿(旧大竹家住宅・奥会津博物館)−国指定重要有形民俗文化財
・旧山王茶屋(旧渡部家住宅・奥会津博物館)−南会津町指定重要文化財
・南山通り横川一里塚−よばわり岩の一里塚−日光市指定史跡
・南山通り上三依一里塚(2基)−日光市指定史跡
・旧高原問屋屋敷跡−吉田松陰宿泊地−日光市指定史跡
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