古殿八幡神社概要: 古殿八幡神社は福島県石川郡古殿町大字山上字古殿に鎮座している神社で、創建は平安時代後期とされます。伝承によると康平5年(1062)に源頼義、義家父子が前九年合戦(奥州全域で俘囚長の安倍氏が朝廷に対して反乱を起し、鎮守府将軍に就任した源頼義が鎮圧した。)の折、苦戦を強いられこの地まで一時撤退し、京都の男山八幡(現在の岩清水八幡宮:京都府八幡市)に戦勝祈願したところ、見事念願成就したことから八幡神に感謝し康平7年(1064)に分霊を勧請し社殿を造営したと伝えられています(現存する最古の軒札は康平7年ですが、由来に因み後年に製作されたものと推察されています)。
以来、竹貫郷13カ村の総鎮守として近隣からの信仰が篤く、歴代領主の崇敬社となり社地の寄進や社殿の造営などが行われ、特に建久5年(1194)には源頼朝により竹貫郷領主に命じらた福田三郎広成の後裔は地名に因み竹貫氏を称し、八幡宮の別当として祭祀を司りました。又、同年には頼朝から社領が寄進され、それを記念して例祭で流鏑馬・笠懸を奉納し、現在まで神事として続けられています。
【 古殿八幡神社別当・神官:竹貫氏 】-古殿八幡神社の別当を担った竹貫氏の出生は不詳ですが、平安時代末期に当地の領主だった福田三郎広成が領地である竹貫郷の地名に因み「竹貫」姓に改めたとされます。一方、長く石川郡周辺を支配した石川氏に伝わる「石川系図」によると石川家3代当主石川基光の3男季康が竹貫郷を与えられ「竹貫」姓に改めたとされます。
又、石川家18代当主石川義光の弟である光宗が竹貫家を継いで一族衆に列したとの説もあり、何れにしても鎌倉時代から室町時代にかけては竹貫氏は石川家に仕えるような形で当地を支配していた事が窺えます。
戦国時代の天文10年(1541)頃には既に竹貫氏は岩城氏の家臣になったと見られ、岩城重隆に命じられ佐竹氏と白川氏の領地の調停を行っています。天正18年(1590)の小田原合戦の際には主家である岩城常隆と共に参陣を果たし領地が安堵されたものの、岩城家領内の富岡に移封となり完全に家臣化されたようです。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの戦いでは岩城貞隆が佐竹氏から養子だった事から佐竹氏に従い東西中立を保った為に改易となり竹貫氏も連座した格好となっています。
慶長9年(1604)徳川家の家臣で後に尾張藩に附家老(犬山城の城主)となった成瀬正成の尽力により竹貫領3千石が認められ一時復権を果たしたようですが、竹貫隆宗が慶長15年(1610)に死去すると改易となり没落しています。古殿八幡神社の別当である竹貫氏は上記の竹貫家の一族で、本家である竹貫家が没落後も当地に留まり別当職を引き続き担っています。
古殿八幡神社は室町時代後期の天文年間(1532〜1555年)、落雷により社殿が焼失し記録や社宝などが焼失しましたが、当時の領主(別当)だった竹貫氏が天文20年(1551)に再興されました。竹貫氏が領主から没落した後も別当として祭祀を司り、その後に領主となった岩城氏や大関氏、大田原氏などが庇護し社領の安堵が行われています。
江戸時代に入ると歴代棚倉藩(藩庁:棚倉城)の藩主が庇護し寛永6年(1629)には内藤豊前守が社殿の造営を行い、例祭には代参を派遣し参拝を怠らなかったとされます。古くから神仏習合し別当寺院として大善院(竹貫家)が祭祀を司り「八幡大菩薩」と称してきましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が排され社号も八幡神社に改められ郷社に列しています。
境内は大きな狛犬を過ぎると神仏混合の名残が残る神社山門(随身門)があり内部には随神が祀られています。古殿八幡神社本殿は寛永8年(1631)に建てられた古建築物で、一間社流造、木羽葺きとなっています。建築年代から江戸時代初期の桃山建築の要素を含んでいて、懸魚や鼻隠し、蟇股の彫刻などに特徴が表れています。境内社である若宮社本殿も同時期に建てられたもので同様な形式が見られました。
古殿八幡神社拝殿は木造平屋建て、入母屋、鉄板葺き、平入、桁行6間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造板張り。随身門は寄棟、鉄板葺き、三間一戸、桁行3間、張間2間、八脚単層門、左右に随身像安置。絵馬殿は木造平屋建て、入母屋、鉄板葺き、平入、桁行5間、張間3間、外壁は真壁造板張り。例祭である笠懸・流鏑馬は古式を伝える神事として貴重な事から平成7年(1995)に福島県指定重要無形民俗文化財に指定されています。祭神:誉田別命。
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古殿八幡神社:上空画像
【 参考:文献等 】
・ ふるさとの文化遺産-郷土資料辞典7[福島県]-株式会社人文社
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