二本松街道: 猪苗代城

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概要・歴史・観光・見所
猪苗代城(亀ヶ城)概要: 佐原義連は源頼朝の側近の1人で源平合戦猪苗代城により功を挙げ御家人としての地位を固め文治5年(1189)の奥州合戦にも頼朝に従軍し陸奥国会津四郡(会津郡・耶麻郡・大沼郡・河沼郡)が与えられました。猪苗代領に義連の子供である盛連の長男、大炊介経連が配され、地名に因み猪苗代氏に改称し建久2年(1191)に猪苗代城(亀ヶ城)を築城し自らの居城にしたとされます。一級資料が無い為、正確では無いとされますが、佐原氏の一族が当地の地頭として赴任し猪苗代氏を名乗った事は事実とされ、何れの段階を経て築かれたと思われます。会津黒川城(後の鶴ヶ城)の城主となった芦名氏の祖とされる芦名光盛は大炊介経連の弟とされる事から、芦名氏と猪苗代氏は同族とされ当初は協力して会津地方を治めていました。猪苗代経元には嫡男がいなかった為、芦名家から養子を迎えるなど比較的蜜月でしたが、時代が下がると次第に猪苗代氏が独立性を高め、猪苗代城さらに芦名氏自体が幼少の当主が続いた為急速に弱体化していきました。芦名氏は事態を打開する為、北関東を席巻した佐竹義重の次男義広を当主として迎えましたが、家臣団も佐竹派、伊達派に分かれ対立し不安定な領土運営を余儀なくされ、猪苗代城でも伊達派だった猪苗代盛国と佐竹派の盛胤が対立し(盛国の嫡男、当時の城主)盛国が猪苗代城を奪い盛胤が会津黒川城に退去しました。天正17年(1589)、予てから会津進出を窺っていていた米沢城の城主伊達政宗が大規模な軍事行動を起こした際、盛国は芦名家から離反、摺上原の戦いでも奮戦して功を挙げ猪苗代城を安堵されたと思われます。敗れた芦名義広は本家である佐竹家をたより会津黒川城を退去、常陸に逃れ猪苗代盛胤もこれに従っています。

しかし、伊達政宗は同年に行われた小田原の陣に遅参し、芦名家との戦いは猪苗代城天正15年(1587)に豊臣秀吉が発布した惣無事令の後だった事から私闘と断ぜられ岩出山城(宮城県大崎市)に移封となり、盛国も同様に大名家とは認められなった事で伊達家の家臣に組み込まれ猪苗代城を退去しました。当地は奥州の大道である奥州街道と米沢城に通じる街道への分岐点で会津黒川城を守る最終防衛線と捉えられていた事から重要視され、その後に会津黒川城に入った蒲生氏郷、上杉景勝、蒲生秀行蒲生忠郷、加藤嘉明、加藤明成、歴代松平家は何れも重臣を配して守りを固めています。慶長20年(1615)に一国一城令が発布された後も猪苗代城は特例として城郭として認められ引き続き会津黒川城の支城として維持され、会津黒川城が鶴ヶ城に改名された事で亀ヶ城と呼ばれるようになっています。慶長4年(1868)の戊辰戦争の際は会津藩は奥羽越列藩同盟に参加した為、新政府軍は会津藩領に侵攻、特に母成峠には主力2千2百人の大軍を送り込み、完全に裏をかかれた会津軍8百人は大敗、さらに新政府軍は守りの要となった猪苗代城に進軍しました。当時の城主である高橋権大夫は戦線維持が難しいと判断し、猪苗代城を焼き払い鶴ヶ城に退去し、これをもって猪苗代城は事実上廃城になっています。

猪苗代城(亀ヶ城)・縄張り: 猪苗代城は、比高40m程の丘の上に築かれた猪苗代城平山城で頂上部に設けられた本丸を中心に二之郭、帯郭、二之丸、三之丸が配され周囲には水堀が囲い、東側に設けられた三之丸ぼ家臣屋敷の外側にも水掘が設けられています。城域は南北約250m、東西約200m、本丸には御座之間(御殿)、茶室、兵器庫、塩蔵があり、二之郭には角櫓、番小屋、土蔵、煙硝蔵、二之丸には御城代屋敷、馬場、稲荷社、番所、馬検所、弓場、重臣屋敷(兼子家・横地家)がりました。三之丸とは二之丸東側に設けられた中門と北中門で繋がり、城下とは三之丸に設けられた追手門と北門で繋がっていました。城の東側が大手筋で、この部分のみ石垣が多用され枡形虎口も石垣で構成されています。猪苗代城が廃城後は荒廃しましたが明治38年(1905)以降有志により公園として整備され昭和44年(1969)に亀ヶ城公園となっています。猪苗代城(亀ヶ城)は中世から近世にかけて当地方の歴史に大きく関わり遺構も明瞭に残っている事から平成13年(2001)に福島県指定史跡に指定されています。

猪苗代城(亀ヶ城)・城下町: 猪苗代は城下町であると同時に会津城下猪苗代城と奥州街道の本宮宿を結ぶ二本松街道の宿場町で名古屋町・本町・新町・中町・土町が街道筋で商人町が配されました。猪苗代城の三之丸が武家地で二之丸に鎮座した稲荷社は本丸から見ると北東にあたり城の鬼門鎮守だったと思われます。又、猪苗代城の略北側にあたる土津神社は初代会津藩初代藩主保科正之が祭られた神社で境内背後の高台には正之の菩提が収められている墓域があり会津藩にとっても最も神聖な聖地として荘厳華麗な社殿が造営され日光東照宮と並び称されるほどでした。又、土津神社は鶴ヶ城から見ると北東(鬼門)にあたる為、領内の鬼門鎮守でもあり、歴代藩主や代参が度々土津神社参拝に訪れており猪苗代城はその宿所や休息場所として利用され城主は墓守の任も担っていました。



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