大内峠の茶屋跡(大内宿):概要 大内峠(標高:約910m)は会津西街道(下野街道)の峠の1つで関山宿(福島県会津美里町)と大内宿の中間に位置する事から、旅人や商人が休息などで利用する茶屋が設けられました。大内峠の茶屋は2度建てられており、発掘調査によると1度目は桁行6間、梁間4間半で、後に建替えられたものは桁行3間半、梁間3間半と規模が縮小され初期建物の西北側に移されています。
理由は判りませんが、江戸時代初期の会津藩初代藩主保科正之と2代藩主保科正経までは、参勤交代などで本城である会津城(福島県会津若松市:別名、鶴ヶ城、黒川城、若松城)と江戸城(東京都千代田区)の間を会津西街道(下野街道)を利用して行き来していましたが、3代藩主松平正容からは白河街道を利用した為、会津西街道(下野街道)の重要性が失われました。
天和3年(1683)の日光大地震により鬼怒川支流の男鹿川が土砂で堰き止められ天然ダムの「五十里湖」が形成されると街道筋が分断されると物資の輸送経路も変更されました。その後、街道が復旧するものの、往時と比べると大幅に減少し、江戸時代後期には会津藩の廻米でも利用されなくなったとされます。
これにより大内峠の茶屋の重要性も小さくなり、建物の規模も縮小されたのかも知れません。ところが、文政10年(1827)、突如として8代藩主松平容敬が会津西街道(下野街道)を利用して江戸に向う事となり、郡奉行から郡中各郷には多くの廉書が発給されました。
案内板には「大内峠見晴宜敷場所、茶屋前々之通、手軽ニ御駕篭立場設け候事 但し治定之所ハ申建置候間、追而可申聞候」、「右御小休場所御設入用之陣桐油、雪菰、手桶、柄杓、茶碗之類御貸渡之儀、申建置候間、追而可申聞候」などの廉書が出されたと記載されています。
大内峠の茶屋跡・写真
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