大内峠一里塚(福島県下郷町)

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大内峠一里塚(大内宿):概要 大内峠一里塚は会津西街道(下野街道)大内峠一里塚(大内宿)の交通施設の1つで、正保4年(1647)に会津藩初代藩主保科正之により本格的に街道が整備された事から、この前後に築かれたと思われます。一里塚とは、名称と通りに江戸日本橋を起点として1里(約3.93キロメートル)毎に築かれた塚の事で、街道の両側に土盛を設けて目印や休息用の木陰を作る為に榎などの木が植えられていました。この一里塚がある事で街道を利用した旅人や運送業者は凡その位置や時間の目安となり当時の交通施設として大変重要な意味がありました。明治時代以降、近代交通網が整備されると、一里塚の重要性が失われ、さらに道路の拡幅や宅地化などで急速に姿を消しました。大内峠一里塚は会津藩の本城である会津鶴ヶ城(福島県会津若松市)の城下町で多くの街道が交わる「大町札の辻」を基点として5里(約19.64m)にあたり、高さ約3m、周囲約20m、頂部に榎、街道の両側に一里塚が残る数少ない遺構として貴重な存在です。大内峠は険しく、近代交通が整備される事がなかった為、江戸時代からの街道の姿が明瞭に残されたと思われます。案内板によると「 この大内一里塚は、会津城下「大町札の辻」から五里(約20Km)の位置にあたります。下野街道の一里塚は、そのほとんどが対で構築されたと考えられていますが、現在ではその殆どが破壊されて消失したか、あるいは片側だけとなっており、大内峠一里塚のように対で現存していることは希なことで、県内でも貴重な文化遺産となっております。会津若松から江戸までは約61里(約252Km)会津藩主はこの距離を5泊6日の旅程で参府していますが、藩士の参勤通行はもとより、物資運送のためにこの街道を幾度となく往復した人たちにとっても、一里塚は旅の大きな目安となったことでしょう。」とあります。大内宿や大内峠一里塚を含む前後10kmは名称「下野街道」として平成14年(2002)に国指定史跡に指定されています。又、この先には大内峠古戦場大内峠の茶屋跡などの史跡が点在しています。

大内峠一里塚・写真
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大内峠一里塚・写真
大内峠一里塚・写真

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