八幡のケヤキ(福島県下郷町)

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会津西街道(下野街道・八幡のケヤキ)
【 八幡のケヤキ 】−八幡のケヤキ(福島県下郷町中山)は大内宿倉谷宿との間に位置し、推定樹齢950年、樹高36m、幹周1.2mと会津西街道(下野街道)きっての大木で平成5年(1993)に下郷町指定天然記念物に指定され昭和58年(1983)に名称「中山の大ケヤキ」として福島県緑の文化財に指定されています。伝承によると天喜3年(1055)、奥州の争乱である「前九年合戦」を治める為、源義家が当地まで進軍してきましたが、険しい道中で中々進む事に難儀していると、中倉村の村長である二宮太郎兵衛の招きにより邸宅で休息を取る事が出来ました。二宮太郎兵衛は義家一行を篤く歓迎する一方で、敵軍の背後に廻れる大沼郡尾岐村に至る間道を教授し、それに従い進軍すると、見事敵軍の不意をうつ事に成功し、大勝利を収めました。これに歓喜した義家は二宮家の屋敷内にケヤキの苗木を手植えしたと伝えられています。

前九年合戦は俘囚長である安倍氏が多賀城(宮城県多賀城市)に置かれた陸奥国府の陸奥守に対して反乱の事で、主戦場は現在の岩手県南部から中央部にかけて行われています。進軍の経路は判りませんが、一般的な解釈としては東山道を北上して多賀城に至り、軍の体制を整えて安倍氏の領地である陸奥国北部に進んだと思われます(最終的に厨川柵(岩手県盛岡市天昌寺町)、嫗戸柵(盛岡市安倍館町)が落城、安倍貞任は捕えられ斬首)。東山道の福島県内の経路は中通りにある雄野駅家(白河市)、松田駅家(白河市)、岩瀬駅家(須賀川市岩瀬)、葦屋駅家(郡山市)、安達駅家(本宮町)、日野駅家(二本松市安達)、岑越駅家(福島市)、伊達駅家(伊達市)、篤借(国見町)とされる為、後に会津西街道(下野街道)と呼ばれる日光から会津を結ぶ街道を利用したと考えにくいところです。ただし、大内宿の高倉以仁王(後白河天皇の第3皇子:大内宿の鎮守である高倉神社の祭神)の逃避伝説や、糸沢宿(福島県南会津町)の源義経の逃避伝説(義経の家臣が龍福寺を創建)、湯西川温泉(栃木県日光市)の平家落人伝説など、会津西街道(下野街道)の街道沿いには平安時代後期の伝説が点在している事から平安時代には街道の原型のようなものが存在していたのかも知れません。

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