高倉神社(大内宿)

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高倉神社(大内宿):概要 高倉神社(福島県南会津郡下郷町一之鳥居大内宿を含む近隣7郷の総鎮守です。高倉神社が何時頃に創建されたのかは判りませんが、次のような伝承が伝えられています。治承4年(1180)、高倉以仁王(後白河天皇の第3皇子)は平家によって朝廷が支配されるのを危惧し、源頼政と共に平家打倒を画策、全国の武士達に平家打倒を呼びかける「以仁王の令旨」を発令しました。しかし、志半ばで計画が露呈し、平家から追討の軍が派兵され宇治川の戦いで敗北を喫します。一般的な史実としては高倉以仁王がここで命を落とすのですが、大内宿に伝わる伝承では密かに戦場から脱出し、東山道と沼田道を抜け当地に辿り着いたそうです。暫く、大内宿(当時は山本村)に逗留していましたが、以仁王の生存を知った平家は密かに追手を差し向けて命を奪おうとしました。追手が正に以仁王の命絶とうとする刹那、突如として雷鳴が轟き、近くに落ちた事から、追手はこれは神の御告げであると悟り、以仁王を密かに越後国(現在の新潟県)に逃がし、当地に以仁王を祭る高倉神社を創建したと伝えられています。

大内宿の佐藤家(玉屋)では以仁王が当地に辿り着いた際に草鞋を脱いだ家で滞在中に御世話をしたとし高倉神社の永代御頭家になったと伝えられ、例祭の半夏祭の神輿の渡御の際には、佐藤家(玉屋)が神輿の休憩所になっています。大内宿の郊外には以仁王の愛妾で当地まで追いかけてきたもの病気で死去した桜木姫の墓碑が建立されています。

高倉神社は古くから神仏習合し、高倉大明神と呼ばれてきましたが二之鳥居明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色は一掃され、明治3年(1870)5月18日に社号を「高倉神社」に改称し村社に列しています。拝殿は入母屋、鉄板葺き、平入、桁行3間、梁間2間、正面1間向拝付、外壁は板張り素木、向拝木鼻には獏、欄間には龍の彫刻が施されています。本殿は一間社流造、鉄板葺。幣殿は両下造、鉄板葺。大内宿が昭和56年(1981)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された際、伝統的建造物の建築物の社寺、鳥居(一之鳥居:自然木神明鳥居・二之鳥居:自然木神明鳥居・三之鳥居:木造両部鳥居)、石段(参道)に選定されています。

本殿背後の御神木(高倉神社の大杉)は創建時に献植した伝わる杉の大木で福島県緑の文化財に指定され、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された際の樹木に選定されています。例祭の「半夏祭り」は古式を伝える貴重な行事として下郷町指定無形民俗文化財に指定されています。高倉神社の社殿の背後は地元では「王三段」と呼ばれ、一番高い段には以仁王の宮殿、2段目と3段目は家臣の屋敷があったとされ、その入口には石碑が建立され、注連縄で結界を張って神聖視しています。祭神:高倉宮以仁王(又、以仁王の愛馬とされる連銭葦毛も祭られているそうです)。配祀:桜木姫。合祀:高倉宮后紅梅御前。


高倉神社:社殿・境内・写真
高倉神社(大内宿)・写真

二之鳥居 参道 手水 不動明王 参道 三之鳥居 参道 拝殿 拝殿 拝殿 向拝 本殿

以仁王の生存伝説は、宇治川の戦いで以仁王が敗北したものの、敵方に誰も以仁王の顔を知る人が居おらず生死が確認出来なかった事が起因しています。そして以仁王の協力者である源頼政の弟、源頼行の領地、越後国刈羽郡小国保を目指して逃避したという伝説が造り上げられました。

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