玉屋(大内宿):概要 佐藤家は20代以上続く名家で、次のような伝承が伝えられています。平安時代末期の治承4年(1180年)5月、平家打倒を画策した高倉以仁王(後白河天皇の第3皇子)の計画が露呈し、逆に高倉以仁王は平家から追討を受けました。高倉以仁王は東山道を北上し上野国(現在の栃木県)からは桧枝岐を経て当地に至り、その際、高倉以仁王が草履を脱いだのが佐藤家の祖先の家だったと伝えられています。
当時、当地は山本村と呼ばれていたそうですが、高倉以仁王が宮中(京都の御所内部)の大内に似ていると語った事から大内村と呼ばれるようになり、やがて、大内宿の鎮守で高倉以仁王を祭神とする高倉神社が創建されると佐藤家が永代御頭家の任を代々担っています。高倉神社の例祭である半夏祭の神輿の渡御の際には、神輿の休憩所にもなり、現在でも神社と深い繋がりがあり、家宝として以仁王御伝記(治承4年:1180年の宇治平等院での戦いから大内宿に至るまでの伝記)が伝えられています。
現在の建物は伝承では築400年前(江戸時代初期)に建てられた伝えられる古建築物で、木造平屋建(1部屋根裏部屋有)、寄棟、茅葺、他の大内宿に立てられた古民家同様に街道側は妻面で平入、外壁は真壁造り、土壁鏝押さえ、腰壁は下見板張り縦押縁押え、内部は街道側の2間が宿泊や休息で利用出来る座敷となっています。
敷地割りは大内宿が成立した際に町割された間口6間から7間、奥行30間から33間を踏襲しているように思われます。昭和56年(1981)4月18日に大内宿が国の重要伝統的建造物群保存地区が選定されると、外観の修景が行われ佐藤家住宅(玉屋)も昭和58年(1983)に修復復元されています。
佐藤家住宅(玉屋)・写真
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