大内ダム:概要 この地は大内沼と呼ばれる湖沼があり、会津西街道(下野街道)と市野峠、結納峠へ向う追分(分岐点)があった事から追分沼とも呼ばれました(街道の分岐点には追分地蔵が建立され、道標になると共に道中安全が祈願されました)。慶応4年(1868)9月1日には追分沼を挟んで新政府軍と会津軍との激しい攻防戦が繰り広げられています。双方多くの犠牲者を払いながら、今度は大内峠が戦場となり、大内峠を突破された会津軍は会津城に撤退し会津西街道(下野街道)の街道筋は新政府軍に掌握されました。
追分沼の湖畔には犠牲者の慰霊の為に「戦士二十四人の墓」が建立されていましたが、大内ダム築造した際に現在地に遷されています。明治11年(1878)にはイギリス人女性紀行家イザベラバードが大内宿の美濃屋(阿部家住宅)を出立し追分沼の湖畔を通り市野峠を越え高田方面へ抜けています。
明治17年(1884)に会津三方道路が開削されると急激に交通量が減り、追分沼を訪れる人も少なくなりました。昭和48年(1973)、オイルショックにより国の電力行政が火力発電に頼らない自然エネルギーを注視するようになり、特に水力発電は豊富な降雨量がある日本にとって安定的に電力を供給出来るとして奨励されました。昭和49年(1974)には追分沼に上部調整池を設ける計画が出され、同年に承認されると工事が着工、平成3年(1991)に竣工しました。
大内ダムの形式は「中央土質遮水壁型ロックフィルダム(大内ダムで利用した石材は上流にある原石山産)」、高さ102.0mは阿賀野川水系に限ると奥只見ダム(福島県南会津郡檜枝岐村・新潟県魚沼市)の157.0m、田子倉ダム(福島県南会津郡只見町)の145.0mに次ぐ高さで最大1000000kWを発電しています。ダム頂長340m、ダム頂巾10m、ダム体積4459000立方メートル。周辺は散策路が整備され、特に秋の紅葉には大内宿と合わせて多くの観光客が訪れるそうです。
大内ダム・写真
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