美濃屋(大内宿):概要 阿部家は代々大内宿の名主を歴任した家柄で、「美濃屋」を屋号として掲げていました。阿部家住宅(美濃屋)は江戸時代末期の慶応年間(1865〜1868年)に建てられた古建築物で、木造平屋建、寄棟、茅葺、他の大内宿に立てられた古民家同様に街道側は妻面で平入、外壁は真壁造り、白漆喰仕上げ、又、名主といえど、大内宿が開宿された際に町割された間口6間4尺(約12m)・地坪6畝20歩(約200坪)が略引き継がれていると思われます。
又、江戸時代末期には大内宿の本陣だった家が衰退していた事から事実上の本陣としての役割を担い、本陣は高い身分の人物が宿泊や休息で利用する公式な施設である事から、細かな意匠や形式、格式が定められていた為、阿部家住宅(美濃屋)の座敷は床の間、違い棚、戸袋付き、天井が高く、欄間は珍しい矢立の欄間が採用され、玄関も分けられていました(正式な本陣では無かった為、敷地間口も他家と大きく変わらず、表門や、豪勢な玄関などは設けられていなかったようです)。
一方、今まで通り、会津西街道(下野街道)の旅人や商人達が利用した為、街道沿い正面2間はそちらに当てられています。会津戊辰戦争の際は大内宿周辺も激戦地となり、会津軍が撤退の際、新政府軍に利用されない為、火をかける予定でしたが当時の当主阿部大五郎が交渉に及び、焼き討ちを免れたと伝えられています。
明治時代に入ると街道制度が廃止となると、江戸時代からの生業の延長で、旅館業や運送業、大内宿の郵便業務、養蚕などを行うようになり、華族である四條殿や冨小路殿などが宿泊しています。
明治11年(1878)6月27日にはイギリス人女性紀行家イザベラバードが大内宿を来訪した際に著書である「日本奥地紀行」に「私は大内村の農家に泊まった。この家は蚕部屋と郵便局、運送所と大名の宿所を一緒にした屋敷であった。 村は山にかこまれた美しい谷間の中にあった。」 と記載している事から、阿部家住宅(美濃屋)に宿泊したと推定されています。
又、会津藩最後の藩主松平容保が会津戊辰戦争で敗北し会津藩が廃藩後、その罪により謹慎処分となり、明治5年(1872)に蟄居を許された後に、明治13年(1880)に日光東照宮(栃木県日光市)の宮司に就任した前後、会津に帰国した際に阿部家住宅(美濃屋)に宿泊しています。
阿部家住宅(美濃屋)・写真
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