馬場都々古別神社

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概要・歴史・観光・見所

馬場都々古別神社(棚倉町)概要: 馬場都々古別神社は福島県東白川郡棚倉町棚倉馬場に鎮座している神社です。馬場都々古別神社は「近津三社」の上之宮とされ八槻都々古別神社と同様な創建の伝承を持ち、景行天皇の御代(西暦71〜130年)に日本武尊が味耜高彦根命の御霊を勧請したのが始まりと伝えられています。

当初は武鉾山(福島県白河市表郷三森:建鉾山・都々古山・立鉾山)に鎮座し山頂付近には日本武尊が剣を突き刺したと伝える建鉾石があります。

武鉾山は標高403m程の低山ですが山容は三角錐状の所謂「神奈備型」で山頂には岩石が剥き出し磐座としては相応しい景観が見られ、山の名前の由来にもなった建鉾石(立石・高さ約1.4m)が控えています。

麓からは古墳時代中期の5世紀頃の石製模造品、青銅製擬鏡、鉄鉾、鉄刀、鉄剣、土師器、壺、高杯等などの遺物が多数(6千3百余)発見され当地が一大祭祀遺跡だった事が窺え、発掘した遺物は貴重な事から建鉾山祭祀遺跡出土土師器・滑石製模造品は白河市指定文化財(考古資料)に指定され、建鉾山祭祀遺跡は白河市指定史跡に指定されています。

武鉾山は馬場都々古別神社の旧地とされ、近世までは聖地として一般人の立ち入りが制限され、明治16年(1883)まで、例祭では御神幸と呼ばれる、馬場都々古別神社から山頂の奥之院まで渡御する神事が行われていました。武鉾山の周辺には5世紀頃の有力な古墳が無い事から有力豪族の氏神的な存在では無く、大和朝廷が直接関わった可能性が高いと思われます。

少し離れますが、古代の陸奥国(福島県・宮城県・岩手県・青森県・秋田県の一部)と下野国(栃木県)の国境を管理した白河の関があり、当地近くで旧東山道と、近世に棚倉街道と呼ばれる街道筋が合流する結束点だった事から、古代交通上の重要拠点として考えられたのかも知れません。武鉾山は神奈備型で山頂に磐座に出来る岩石があった事から祭祀場とするには恰好の存在で精神的な拠り所だったと思われます。

もし、日本武尊が実在するならば、4世紀頃の人物である可能性が高い為、建鉾山祭祀遺跡で発掘された遺物との年代の開きは約100年あり、直接は関係が無いと思われますが、記紀に精通する識者が後年に上記の伝承を流布させたと思われます。その後、馬場都々古別神社は現在の棚倉城の跡地付近に遷座した後も、麓には都々古和気神社と都々古山神社が鎮座している事から引き続き信仰されていたと思われます。

特に都々古和気神社の案内板にには、日本武尊が山頂に鉾を建て御親祭なされたとの故事から山頂に梵天を奉弊する神事が行われていると記載されている事から信仰の篤さが窺えます。その後の由緒上は歴史上の人物が多数来訪している為にいまいち信頼性を欠きますが、平安時代に成立した延喜式神名帳には名神大社として記載され格式の高い神社である事は間違いないところです。又、同じ棚倉町には別の都々古別神社が鎮座し、現在に至るまで本社争いが激しかったようです。

大同2年(807)、坂上田村麻呂が東夷東征の際、当社に戦勝祈願をし、見事念願成就した事から伊野荘(現在の棚倉城)に遷座し、味耜高彦根命と共に、相殿に日本武尊の御霊を勧請し社殿を造営しました。延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳では名神大社と記され平安時代後期の奥州の動乱には源頼義、義家が戦勝祈願に当社を訪れ、長覆輪太刀や赤糸威鎧残闕を奉納したと伝えられています。

奥州一宮として歴代領主や為政者などから永く信仰の対象となり、足利義満、歴代白河城主、豊臣秀吉などが崇敬庇護し、社領の寄進や社殿の造営が行われました。

一般的には陸奥国一宮は陸奥国府が設置された多賀城(宮城県多賀城)の北東(鬼門)に位置する塩釜神社(宮城県塩釜市)でしたが、室町時代後期(16世紀)に「大日本国一宮記」が編纂された際、塩釜神社は延喜式神名帳に記載されておらず、都々古別神社が同神名帳で名神大社として記載されていた事から陸奥一宮と見做されたようです(江戸時代に入り仙台藩主伊達家が塩釜神社を再興すると、再び塩釜神社も陸奥国一宮としての体裁が整えられています)。

中世に入ると神仏集合し、馬場都々古別神社の別当寺院である不動院の高松家が祭祀を司り、久慈川、社川、阿武隈川流域に信仰が広がると社僧が武装化し当地域の行政、軍事にも大きな影響力を行使するようになります。戦国時代に入ると、常陸国を制した佐竹家の支配下に入り、豊臣秀吉の命により社殿の造営が行われました。

寛永元年(1624)に丹羽長重が棚倉藩に移封され、棚倉城を築く事になると境内と城域が重なった為、寛永2年(1625)に現在である馬場に遷宮し社殿が移築されています。以後、歴代棚倉藩主が庇護し幕府からも朱印地363石〜150石を認められています。

古くから神仏習合し別当寺院として不動院(高松家:棚倉藩の家老)が祭祀を担っていましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が排され明治6年(1873)に国幣中社に列しました。

明治8年(1875)には旧会津藩家老職を務めた西郷頼母が宮司として馬場都々古別神社に赴任しましたが、明治10年(1877)に西南戦争が勃発すると、西郷隆盛と交遊があった事から謀反の嫌疑がかけられ宮司を解任させられています。

境内にはその時以来の大木が育ち、荘厳な雰囲気があり、石段の途中に大きな鳥居があり、参道には石灯篭など多くの奉納物があり信仰の広さを感じる事が出来ます。格式:式内社(名神大)・陸奥国一宮・旧国幣中社・別表神社。主祭神:味耜高彦根命。相殿神:日本武尊。

社殿の前には神社山門(神門)があり、神仏混合の名残が見受けられ、八槻都々古別神社とは異なり、拝殿脇には神楽殿が配されています。本殿は三間社流造、銅板葺の古建築物で、遷宮以前の文禄年間(1592〜1596年)に豊臣秀吉の命により常陸国守となった佐竹義宣が造営した当地方の桃山文化の代表例となっています。馬場都々古別神社本殿は大変貴重な事から平成26年(2014)に国指定重要文化財に指定されています。

拝殿は江戸時代初期の承応2年(1653)に造営されたもので、木造平屋建て、木造平屋、入母屋、銅板葺、平入、桁行6間、梁間3間、正面1間唐破風向拝付、外壁は真壁造り板張り、華美な意匠が少なくシンプルな構成です。神社山門は元治元年(1864)に造営されたもので、切妻、銅板葺、三間一戸、八脚単層門、外壁は真壁造り板張り、左右には随身像が安置され、中央には「陸奥国一宮」の扁額が掲げられ、天井には龍の墨絵が描かれています。

都々古別神社(馬場)の文化財
・ 本殿−桃山時代-三間社流造,銅板葺,佐竹義宣造営-国指定重要文化財
・ 長覆輪太刀(2口)-鎌倉時代,伝:源義家が寄進,118.1p-国指定重要文化財
・ 赤糸威鎧残闕-平安末期,伝:源義家着用,胴高105.0p-国指定重要文化財
・ 扇面懸仏-国指定重要文化財
・ 銅造線刻薬師如来懸仏-鎌倉時代初期,径28.3p-福島県指定文化財
・ 鏑造線刻十一面観音懸仏-鎌倉時代初期,径27.9p-福島県指定文化財
・ 鋼造阿弥陀如来懸仏-福島県指定文化財
・ 銅造薬師如来感仏-福島県指定文化財
・ 鉾形祭具(3本)-応永年間(1394〜1427年)-福島県指定文化財
・ 馬場都々古別神社文書等(22点)-福島県指定文化財

馬場都々古別神社:上空画像

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ ふるさとの文化遺産-郷土資料辞典7[福島県]-株式会社人文社
・ 現地案内板-棚倉町教育委員会


馬場都々古別神社:ストリートビュー

馬場都々古別神社:本殿・随身門・写真

都々古別神社(馬場)
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