田出宇賀神社(福島県南会津町田島)

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田島宿(会津西街道・田出宇賀神社)
【 田出宇賀神社 】田出宇賀神社福島県南会津町)が何時頃から祭られているのかは判りませんが次のような伝承が伝えられています。創建当時は辺り一面田圃が広がり、その中に小島が浮かぶような土盛があり、そこから泉が湧出ていました(地名「田島」の由来ともされます)。ある時、その泉から神様が出現し、その年大きな豊作となった事から田ノ神として信仰されるようになり、やがて、田ノ神と同神とされる「宇迦之御魂命」が祭られ、神仏習合すると「田出宇賀大明神」と呼ばれるようになったとされます。南北朝時代に長沼氏が入部し鴫山城が築かれると、境内が丁度、北方に当たる為、長沼氏の守護神である牛頭天王(須佐之男命)の分霊を勧請合祀し、鴫山城の北方鎮守、南山八郷の総鎮守として信仰されました(由緒では文治年間:1185〜1189年に鴫山城の城主長沼五郎家政とされていますが、一般的に鴫山城は14世紀に築かれたと推定されています)。さらに、田出宇賀神社の境内を鴫山城の出城と見立て堀や土塁を築き宮本館としての一面を持ちました。牛頭天王は京都の八坂神社(祇園神社)の祭神でもあった為、例祭には京都の祇園祭りを模した形式が取り入れられ、現在の祇園祭の原型が形成されました。長沼氏は鴫山城を居城とし、長く当地を支配した事から田出宇賀神社の社運も隆盛しましたが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置き長沼盛秀は大名として認められず、伊達家の家臣として当地を離れた為、庇護者を失い衰微しました。一方、長沼氏の家臣である室井氏は主家から離れて当地に土着、田出宇賀神社の神官として再興に尽力しています。江戸時代に入ると会津城(福島県会津若松市)の城主となった蒲生忠郷の家臣小倉行春が鴫山城の城代として配され、慶長8年(1603)には氏子、住民が行春に例祭再興を願い出て許されています。その後に会津藩主となった加藤家、保科家(松平家)共に崇敬庇護し、特に天和4年(1684)には保科正経により社殿が造営されています。会津西街道(下野街道)が開削されると田島宿が整備され、田島宿が周辺の宿場町と比較すると最大規模だった事から祇園祭りの日には氏子や住民だけでなく多くの旅人も見学していたと思われます。田出宇賀神社祇園祭は古式を伝える大変貴重な行事である事から昭和56年(1981)に名称「田島祇園祭のおとうや行事」として国指定重要無形民俗文化財に指定されています。
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