前沢集落・茅葺中門造り民家の景観

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【前沢集落】前沢集落福島県南会津町)は戦国時代の文禄年間(1592〜1595年)に横田城主山内氏勝の家臣とされる小勝入道沢西が前沢の地に土着、帰農して開発された集落と伝えられています。山内氏は藤原秀郷の後裔の一族とされ、応永10年(1403)に山内通俊が大沼郡を拝領した、又は鎌倉時代に執権北条氏に騙され越後に追放され、山内季基の代に大沼郡に入り中丸城(横田城)を築いたとされます。その後、山内七騎党と呼ばれる家臣団を結成し、戦国時代には会津地方を支配する葦名氏・長沼氏・河原田氏と共に会津四家に数えられています。しかし、蘆名氏の台頭により従属するようになり、さらに、その蘆名氏が天正17年(1589)の摺上原の戦いで米沢城(山形県)の城主伊達政宗に敗れ、本家筋の佐竹氏を頼り常陸国(現在の茨城県)に退去した為、当時の当主山内氏勝は石田三成や上杉景勝の支援を受けながら伊達政宗との対決に臨みました。しかし、豊臣家の意向を汲んでいながら、天正18年(1590)の奥州仕置きでは一転、小田原の役に参陣しなかった咎を受け改易され、当地を去る事になると多くの家臣が四散し、小勝入道沢西もその1人と思われます。当時は主家が没落すると他家に仕官する家がある一方で、帰農して大庄屋や豪農になる例も多く資金や人望、人脈などは通常の農家よりは格段に有利な立場にあったと思われます。その後の経緯は不詳ですが江戸時代の正保年間(1644〜1648年)に製作された「会津領内絵図」や、江戸時代末期に製作された「新編会津風土記」にも前沢集落と思われる記載がある事から引き続き集落として存続していたと思われます(前沢集落の開村初期は舘岩川近くにあったといわれ、その後、現在地の位置に移されたそうです)。明治40年(1907)の火災により前沢集落の全戸、神社、寺院(前沢寺はこの火災で廃寺となり、薬師堂のみが再建。)に至るまで全焼し、その後に越後や田島、南郷、伊南地方の大工集団により、略同一規模、同一形式で再建(主屋13棟、新築2棟、鹿島神社本殿、薬師堂)が行われ、全国でも稀に見る茅葺中門造り集落が形成されました。

中門造りとは特に新潟県や秋田県などの日本海側の農家建築で採用される形式で、平入の主屋に対して左右どちらか一方に妻入の厩を配して上空から見ると丁度L字型の平面構成をしています。見た目では曲屋の農家建築とは変わりませんが、玄関が主屋にあるのが曲屋、厩にあるのが中門造りと分けられています。両方の形式は人と馬が同じ屋根の下で生活する当時の習慣で、馬が高価で労働力として貴重な事から冬の際も主屋からの暖気が厩に入り込めるな工夫が見られます。その中でも中門造りの方がより豪雪に対して動線的に有利になるとして、会津地方でも散見出来、特に前沢集落では越後(新潟県)の大工が再建に携わっている事から大きな影響を受けたのかも知れません。前沢集落の場合は主屋部は寄棟で南北向き、厩(突出部)は切妻で下手側に配する例が多く見られ特長の1つとなっています。

前沢集落は舘岩川西岸の緩斜面に位置し、僅かな斜面ですが各戸は整地した平面の周囲に石垣を築き、集落の再奥地の高台には鎮守である鹿島神社が鎮座して境内からは集落全体が見下ろせるような配置が成されています。前沢集落では基本的な生業は農業や養蚕など古くから変化が少なく、大きな近代化の波にさらされる事が無かった事や明治時代後期という比較新しく建てられたものが多かった事などから奇跡的に茅葺屋根の古民家が集中的に残される結果となり、その価値が非常に高い事が認識されるようになると昭和63年(1988)からは前沢集落内での茅葺屋根の葺き替えには補助金が出され、積極的に景観の保存が行われるようになっています。その甲斐あってか前沢集落の約13.3ヘクタールは平成23年(2011)6月に国の重要建造物群保存地区に選定されています。

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