三忠碑(猪苗代町)概要: 三忠碑は旧二本松街道(福島県耶麻郡猪苗代町長田五十軒集落の北側)に建立されている石碑で、案内板によると「 天正17年(1589)旧暦6月5日、伊達政宗は宿願の芦名の所領会津を攻略すべく磨上原に軍を進めた。この地の戦いに芦名義広の家臣金上盛備・佐瀬種常・その子平八郎常雄の三士は主君の危急を救う。だが三人共々戦いの果てに討死した。その忠誠のさまを後世に伝えるため、会津藩主松平容敬公が建立したものであり、全文437文字を唐の書家、顔真卿の書体を集めて刻まれた日本でも珍しい碑文である。 猪苗代町教育委員会 」とあります。芦名義広は北関東の雄佐竹家から養子として芦名家に入った事もあり、家臣からの求心力が弱く、伊達家の侵攻により多くが離反、傍観者を出しました。そのような中、金上盛備は伊達軍の片倉景綱隊に突撃し討死、佐瀬種常も同合戦にて討死、種常の養嗣子だった佐瀬常雄は敗走した芦名軍の殿を務め壮絶な死を遂げたと伝えられています。三忠碑は貴重な事から昭和44年(1969)に猪苗代町指定史跡に指定されています。
三忠碑:上空画像
|
|