下野街道(大内宿):概要 下野街道(会津西街道)は会津藩の本城である会津若松城(福島県会津若松市)の城下町と、日光街道の宿場町である今市宿(栃木県日光市)に至る全長130km余りの街道で、往時は会津藩にとって主要街道の1つとして参勤交代や年貢米の江戸廻米の輸送路として大いに賑いましたが、明治時代以降は難所が多かった事もあり近代交通網の整備が遅れた為、次第に衰微する事になりました。しかし、これらが要因となり大内宿をはじめ、古い町並みを残す旧宿場町や、当時の景観を残す旧街道、交通安全の祈願や信仰の遺構である石仏や石碑などが随所に残される結果となりました。特に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている大内宿を含む前後10キロが下野街道の旧状を良く留め、指定基準「交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡」を満たしている事から平成14年(2002)に国指定史跡に指定されています。
大内宿:概要−大内宿は下野街道(会津西街道)の宿場町で江戸時代初期には会津藩をはじめ、米沢藩(山形県米沢市)や村上藩(新潟県村上市)、新発田藩(新潟県新発田市)の藩主が参勤交代で利用した為、大内宿にも本陣や、脇本陣といった藩主が宿泊や休息で利用する施設が設けられました。江戸時代中期以降、参勤交代は白河街道に経路が変更となりましたが、大内宿の前後には中山峠や大内峠といった難所があった為、比較的平地多い大内宿は物資運搬の中継地や旅人の休憩地として引き続き宿場町として機能しました。しかし、宿場だけでは生活が成り立たず、半分が農作業を行い「半宿半農」といった形態でした。大内宿は戊辰戦争の被害を免れ、明治時代以降の大規模な近代化が図られなった事から茅葺の古民家が数多く存在する日本でも大変貴重な存在となり昭和56年(1981)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
石畳:概要−国指定史跡に指定されている下野街道の区間には氷玉峠、大内峠、中山峠などの峠道が残され、特に氷玉峠(幅約1.6m・長さ約300)と中山峠には石畳の遺構が随所に残されています。
三郡境の塚:概要−当時の南会津郡、大沼郡、河沼郡の3郡の境界線が交わる点に設けらた塚です。街道を利用した旅人や、商人はこの塚を目印にして休息したとされます。又、江戸時代初期の参勤交代の際には、関山宿(福島県会津美里町)からの運ばれた荷物は、三郡境の塚で大内宿の人達に引き継がれた中継地でもありました。
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