大内宿:歴史・観光・見所

  福島県の町並みと歴史建築(ホーム)大内宿
大内宿(起源):概要 大内宿(福島県下郷町)の集落的な発生は判りませんが、平安時代末期、大内宿(福島県下郷町)後白河天皇の第3皇子とされる高倉以仁王が平家に敗れて当地に流れ着いた際、平安京(京都府京都市)にある宮中の「大内」に似ていると称したした事から「大内」という地名が発生したと伝えられています。その後、会津地方と関東地方を結ぶ街道が整備されると、会津黒川城(福島県会津若松市)を本拠とした芦名氏や、田島の鴫山城(福島県南会津郡南会津町田島)を本拠とした長沼氏が軍道として利用した事から、大内宿周辺にも戦乱が及んでいたかも知れません。特に永正18年(1521)には芦名氏が南山地方まで侵攻し、鴫山城は落城、その後長沼氏は芦名氏に臣従しています。天正17年(1589)に行われ米沢城(山形県米沢市)の城主伊達政宗との摺上原の戦いで芦名氏が敗北すると、当地は伊達領となり会津黒川城が伊達家の居城となり、天正18年(1590)に行われた小田原合戦に参陣の要請を受けた伊達政宗は、当街道を利用して小田原城(神奈川県小田原市)を目指しましたが、大内村(後の大内宿)まで進軍した後に転進し再び会津黒川城に帰城し、米沢街道(越後街道)から日本海に抜け小田原城に向っています。奥州仕置きの為、会津黒川城(福島県会津若松市)に着陣した豊臣秀吉は往路は奥州街道白河街道を利用しましたが、宇都宮城(栃木県宇都宮市)に帰城の際は後に会津西街道(下野街道)と呼ばれる街道を利用し、記録は残っていませんが、大内宿も通過したと思われます。

大内宿(江戸時代):概要 江戸時代に入り、保科正之が会津藩(福島県会津若松市:本城−鶴ヶ城)大内宿(福島県下郷町)に入封すると会津西街道(下野街道)を正式に開削し、江戸城(東京都千代田区)出府の参勤交代や日光東照宮(栃木県日光市)参拝の際に利用しました。この頃に大内宿も宿場町として整備され、藩主が休息や宿泊で利用する本陣や、物資輸送の要である伝馬などが整備されたと思われます。特に保科正之は3代将軍徳川家光の腹違いの弟で、家光の片腕として幕府で重きを成した為、本領である会津と江戸を頻繁に往復しています。参勤交代では越後の村上藩(新潟県村上市:本城−村上城)や新発田藩(新潟県新発田市:本城−新発田城)、出羽の米沢藩(山形県米沢市:本城−米沢城)が会津西街道(下野街道)を利用した為、必然的に大内宿も宿泊や休息で利用したと思われます。特に大内宿は早朝早く会津黒川城の城下を出立すると、丁度昼頃に到着した事から、当宿で昼食を摂るが常とされました。又、会津藩では江戸への廻米も会津西街道(下野街道)を利用して運んだ為、大内宿も多くの商人や物資、年貢米が行き交いました。しかし、会津西街道(下野街道)は脇街道として認識された為、幕府の要請により、参勤交代の経路としては利用出来なくなり、さらに、天和3年(1683)の日光大地震により街道の道筋が大きく寸断され通行不能となり物資の輸送も出来なくなった為、大内宿をはじめ、多くの宿場町は衰微する事になります。その後、会津西街道(下野街道)は復旧されましたが、その間に物資輸送の街道が幾つか開削された為、復旧後も往時の賑わい程ではなったとされます。それでも、江戸時代中期以降は庶民も行楽嗜好が高まり様々な社寺仏閣の参拝と称して旅する者が増え為、交通量も増え、吉田松陰や古川古松軒、イザベラ・バードといった著名人も大内宿を利用しています。

大内宿(明治時代以降):概要 幕末には会津藩と新政府との対立から、奥州と越後の諸藩による奥羽越列藩同盟が結成され、そこに旧幕府軍が加わり戊辰戦争が勃発、その戦いの1つである会津戦争の際には会津西街道(下野街道)大内宿(福島県下郷町)が新政府軍の進軍の経路となった為、街道沿いで会津軍との激しい攻防戦が幾重も行われ、幸い大内宿では名主が会津藩との話し合いにより大きな被害を受けなかったものの、宿場郊外にある大内沼(追分沼:現在の大内ダム)や大内峠では激しい戦闘が繰り広げられ現在でも周辺では大砲の砲弾や銃弾などが見つかるそうです。明治時代に入ると街道制度が廃止となった為、大内宿でも本陣や伝馬が廃止され、さらに、明治17年(1884)には大内宿からは大きく外れた大川沿いに日光街道(現在の国道118号、121号)が開削、さらに交通機関が発達すると、徒歩で大内宿を訪れる人が激減し宿場町としての機能が急速に失われました。日光街道は当時の福島県令の三島通庸によって主導された土木事業の一つで、会津若松を基点にして西側(新潟県側)、北側(山形県米沢側)、南側(栃木県日光側)にそれぞれ国道が整備された事から会津三方道路とも呼ばれました。この整備に前後して大内宿でも街道の中央にあった水路を左右の端に付け替え工事が行われましたが、大きな流れは変わらず、ある意味近代文明から取り残された結果、奇跡的に江戸時代宿場町の景観が残され、茅葺屋根の古民家が街道沿いに軒を連ねる現在でも他で見る事の出来ない町並みとなっています。大内宿は町並みや茅葺の景観の価値が認められ、昭和56年(1981)には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、平成14年(2002)には大内宿を含む前後10キロが名称「下野街道」として国指定史跡に指定、平成8年(1996)には名称「下野街道」として歴史の道百選に選定されています。


大内宿:町並み・写真
大内宿

大内宿を利用した著名人
高倉以仁王−後白河天皇の第3皇子
伊達政宗−会津黒川城の城主、南奥州統一
豊臣秀吉−織田信長の後者者、天下人
保科正之−3代将軍徳川家光の異母弟
古川古松軒−奥羽松前巡見使随行者
吉田松陰−明治維新の精神的指導者
イザベラバード−イギリス人女性紀行家

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大内宿の指定・選定・受賞暦
国指定史跡−「下野街道」
国の重要伝統的建造物群保存地区
歴史の道百選(文化庁選定)−「下野街道」
美しい日本のむら景観コンテスト−農林水産大臣賞
日本の音風景100選−「大内宿の自然用水」
美しい日本の歩きたくなるみち500選
手づくり郷土賞(国土交通省)
美しい日本の歴史的風土100選
高倉神社の大杉−福島県指定緑の文化財
・ 大内宿半夏まつり−下郷町指定無形民俗文化財

大内宿を参勤交代で利用した藩
・ 会津藩−本城:会津若松城(福島県会津若松市)
・ 米沢藩−本城:米沢城(山形県米沢市)
・ 村上藩−本城:村上城(新潟県村上市)
・ 新発田藩−本城:新発田城(新潟県新発田市)

大内宿の見所
阿部家住宅(美濃屋)−イザベラバード宿泊
高倉神社−大内宿鎮守、高倉以仁王祭神
佐藤家住宅(玉屋)−高倉以仁王と縁が深い
子安観音堂−信仰の場、女性と子供の守護神
正法寺−宿場町の菩提寺、浄土宗の寺院
大内峠一里塚−下野街道史跡、両側2基
大内峠の茶屋跡−下野街道史跡、復元茶屋
大内峠古戦場−会津戊辰戦争古戦場
大内宿本陣−町並み資料館、復元問屋本陣
弁財天堂−宿場町の信仰の場、石祠
三佛堂−不動明王、役小角、孔雀明王が安置

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会津西街道(下野街道)・宿場町

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