大内峠古戦場(福島県下郷町)

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大内峠古戦場(大内宿):概要 慶応4年(1868)4月23日、大内峠古戦場(大内宿)旧幕府軍が占拠していた宇都宮城(栃木県宇都宮市)が新政府軍の猛攻により落城すると、大きく戦局が新政府軍に傾き、旧幕府軍の主力である会津領への侵攻が始まりました。会津西街道(下野街道)と日光街道との結束点である今市宿での戦いは2週間以上にのぼり、5月6日に均衡が破られ、街道の入口が新政府軍に制圧されました。藤原の戦いなどで会津軍も度々勝利する場面もありましたが、大きな戦局は変わらず8月26日には山王峠が突破され、8月29日には会津軍の本陣が置かれていた田島陣屋が押えられ、8月30日には会津西街道(下野街道)と松川新道から集まった新政府軍が合流し、軍を再編成した上で大内宿への進軍が行われました。基本的に会津西街道(下野街道)を北上し倉谷宿(下郷町)、沼山などで激戦があり、8月31日に新政府が大内宿に入った時には旧幕府軍は大内峠まで退きました(戦略的に新政府軍に大内宿を利用されないように会津軍は宿場を焼き払おうとしましたが、当時の大内宿名主、阿部家美濃屋当主、阿部大五郎が強く嘆願した事により大内宿の焼き討ちが免れています)。会津軍は大内峠を最終防衛線として想定していた為、9月1日に肥前藩(佐賀県佐賀市)、芸州藩(広島県広島市)、宇都宮藩(栃木県宇都宮市)、大田原藩(栃木県大田原市)を次々に大内峠に投入するものの会津藩は頑強な抵抗を見せ、双方大きな被害を出し、新政府軍は一端、大内宿に退き、会津軍も栃沢(大沼郡会津美里町氷玉栃沢)まで退きました。9月2日には新政府軍が大内宿から出陣し栃沢で激しい攻防戦が繰り広げられ、大内峠古戦場(大内宿)会津軍は一端、関山宿(福島県大沼郡会津美里町関山)まで後退したものの、再び栃沢を奪還しています。その間、大内宿には続々と新政府軍の増援が着陣し、3日には薩摩藩(鹿児島県鹿児島市)、黒羽藩(栃木県大田原市前田)、中津藩(大分県中津市)、今治藩(愛媛県今治市)、人吉藩(熊本県人吉市)、宇都宮藩、肥前藩が大内宿を出立、4日に入り体制が決し会津西街道(下野街道)は完全に新政府軍が掌握し、会津城下(福島県会津若松市)に進軍する憂いが無くなりました。

大内峠古戦場(大内宿)・写真
大内峠古戦場(大内宿)

大内峠古戦場や旧大内沼(現在の大内ダム)周辺からは大砲弾や鉄砲弾が数多く発見されており、街道沿いには戦死者の墓碑(追分沼:戦士二十四人の墓・栃沢:土佐藩士七士の墓・正法寺:笹沼金吾の墓・関山宿:会津藩士四十人の墓)が建立されています。大内峠古戦場の近くには大内峠の茶屋跡、大内宿側に下った所には大内峠一里塚などの史跡が点在しています。

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